ヘミシンク日記:町の按摩さん.com

ヘミシンク日記4


  1. ・ヘミシンク、はじめての啓示は笑い声ですかい・ヘミシンクと按摩・夢見心地の体
  2. ・最近の治療中BGM・「ゲートウェイ・エクスペリエンス」再開・以前の「ゲートウェイ」経験
  3. ・「Sprits Journy」メタミュージック・ゲートウェイWAVEU#3 & #4・チャクラ・ブリージング瞑想
  4. ・久しぶりの「モーメント・オブ・レバレーション」・ヘミシンクと瞑想との違い・瞑想とエネルギー感覚
  5. ・四気調神瞑想・はじめてのガイドとの遭遇・静謐な意識状態
  6. ・体全身の振動が心地良いメタミュージック



久しぶりの「モーメント・オブ・レバレーション」

2009/08/01

今日は久しぶりにモンロー研究所のマインドフード「モーメント・オブ・レバレーション」日本語版。
ヘミシンク・マインドフード日本語版は他に「ペイン・マネージメント」と「ザ・ヴィジット」も持っているのですが、「ペイン・マネージメント」は仕事柄購入してみたものの今のところ未使用。
「ザ・ビジット」は目的地まで到達する道のりが長くて、1、2度やったっきり。(^^;
もう少しヘミシンクに没入出来るようになったら、再チャレンジしてみましょう。

という訳で、階段を上り、雲に包まれ、啓示のスペースに漂うという「モーメント・オブ・レバレーション」。
プロセスもシンプルだし、プロセスそれぞれの意識状態、エネルギー状態の変化が愉しめて、ものすごく気持ち良いです。

7段の階段はどんなフォーカスレベルに対応しているのか、それとも数字的にはチャクラっぽいのでチャクラに対応しているのか、ちょっと気になったりします。

今回の「モーメント・オブイ・レバレーション」は、以前やった時より……、って、以前やったのは、もう5年前っすか。(^^;
いや、いや。
月日の経つのは早いものです。

何はともあれ、以前やった時より、ものすごく気持ちよかったです。
今回「ゲートウェイ・エクスペリエンス」を再開して、ヘミシンクでの意識のフォーカスの当て方が、自分なりに少しつかめてきたせいもあると思います。
それは、治療中、特に「指揉み」をやっている時にフォーカスしている意識状態と同じようにする、ということ。
(「指揉み」の実際は「操体法実技入門:指揉み」で)

指揉みをしている時、意識は自然に首のちょっと後の空間に拡がっています。
まずそこからはじまり、患者さんの身体の拡がりに応じて空間の拡がりやバイブレーションが変化します。
まあこれは、あくまでぼく個人の感覚のクセというか、そんなものだと思いますが。
意識のフォーカスをそれと同様にすると、ヘミシンクで前より意識をフォーカスしやすくなりました。
とはいえ、これは暫定的な意識の向け方で、おそらくもっと深く入っていくコツがあるのだと思います。

啓示のスペースに漂っているのは、意識と空間が拡がってもの凄く気持ち良いのですが、そこから白い雲に戻る時、マインドが止まったような静けさの中にいました。
「気持ちよい」という表現にもならないような、静けさ、空白、みたいな瞬間。
おそらく、啓示のスペースでは幾分期待感のような緊張があり、それが抜けた瞬間のスペースだったのでしょう。

さて、次回はまた「ゲートウェイ・エクスペリエンス」の続きに戻りましょう。

ていうか、それにしてもヘミシンクは。
なんて簡単に、肉体が超リラックスした変性意識状態に入っていけるのでしょう。
驚きグッズですね。


 

ヘミシンクと瞑想との違い

2009/08/05

最近、昔買ったモンロー研究所のヘミシンク「ゲートウェイ・エクスペリエンス」日本語版を、数年ぶりに引っ張り出してきて、時々試みています。
以下が「ゲートウェイ・エクスペリエンス」の解説です。

ゲートウェイエクスペリエンスは、知覚の拡大した状態を学び、探求し、適用するための家庭学習用プログラムです。
このシリーズでは、特別に組み合わされた複数のHemi-sync周波数とさらに音声ガイド、かすかな効果音を用いることで、意識を全脳状態(拡大した知覚の状態)へと導きます。
人間は、こうした状態になると、問題を解決し、創造性を発揮し、導きを得るための幅広い認識力を発揮できるのです。
このシリーズは、段階的に効果を高めるように構成されているので、アルバム(第1巻〜第6巻)は、順番に使用してください。

「ゲートウェイ・エクスペリエンス」では様々な意識状態を探求していくのですが、今はフォーカス10とフォーカス12のあたりを練習しているところ。
ヘミシンクCDなしでも、普段の生活の中でも時々フォーカス10やフォーカス12の意識状態へ移行するテストもしていますが、けっこう簡単にアッサリと意識を移行出来ます。
電車で移動中、フォーカスレベルを10や12に移行させると、体は眠ったようにリラックスしたまま変性意識状態に入れるので、暇つぶしに重宝してます。

そんなこんなの今日この頃。
フト、「ん? 瞑想の時の意識状態とヘミシンクで入っていく変性意識状態って、すんごく違うよ」と思い至りました。

ぼくが今までやってきた瞑想や、体験してきた瞑想的環境はOSHOのものがほとんどですから、ここでいう瞑想とは「OSHOのそれ」ということになります。
それらの体験とヘミシンクの大きな違い、それは静けさです。
何もない、透きとおった静けさ。
瞑想の時の静寂を「透きとおった」と表現するのはちょっとピンと来ないものがあるのですが、ヘミシンクとの違いを言葉にするとすればそんな感じです。

ヘミシンクで入っていく世界は、やはり「変性意識状態」というのがしっくりします。
なんというか、無意識も含めたマインド世界というか……。
肉体やエネルギー、無意識も含めたマインド構造の整理には、かなり有用な優れたツールだと思っています。

などというのは、中途半端な瞑想体験者でありヘミシンク万年初心者の、現時点でのとりあえずな感想。

 

瞑想とエネルギー感覚

2009/08/13

モンロー研究所のヘミシンクと瞑想の個人的感触の違いを「ヘミシンクと瞑想の違い」として書いてから、時々座禅のようにただ座る瞑想を30〜40分やるようになりました。
思えば若い頃、このただ座る瞑想が苦手でした。
今でもそうなのですが、子どもの頃から「落ちつきの無さ」には自信がありますから。

座る瞑想が好きになったのは、14年前の1995年、インドのOSHOコミューンで「ミスティック・ローズ瞑想」に参加してから。
1日3時間計3週間のグループで、最初の一週間は3時間ひたすら笑い続けます。
変な瞑想でしょ?(^^;
でも、かなり強烈で効果的な瞑想なんですよ。
この最初の1週間は、グループ以外でもいつも笑いの質をまとって暮らすことになります。
現代人のクセのようになっている深刻さは、アッサリとこの笑いの質で消えちゃいます。

次の1週間は泣き。
毎日3時間、ひたすら泣き続けます。
変な瞑想でしょ、やっぱり。(^^;
この1週間は、しっとりと落ち着いたスペースで暮らすことになります。
悲しみやつらさ苦悩、恐怖や痛みなど思い出したりしますが、感謝も溢れるようにやってきます。
大好きです、この泣くという質。

で、最後の座る1週間。
落ちつきの無さ加減には絶大な自信を持っていましたから、3時間(50分か55分を3セット、だったと思う)を1週間、果たして続けられるかどうか不安でした。
が、しかし。
始めるや否や、その不安はアッサリと消失。
「あぁ、一生座り続けたい……」と思っていたんですから、人生ってわからないものですね。
というか、それほどこの「ミスティック・ローズ瞑想」が偉大だということでしょう。

ん?
何故「ミスティック・ローズ瞑想」のことを思い出したんだっけ?
あ、そう、そう。
例えば、瞑想経験のない人が、いきなり座禅を30分、というのはけっこう難しいのではないかと思います。
座って数分後には、思考や妄想が駆け巡り、落ち着かなくなってきますよね、たぶん。
でも、この「落ちつきのなさ」が、実はかなり興味深いシロモノなんです。
以前「体感としての想いや情動」にフォーカシングのことや想いや情動の体感的側面のことを書きましたが、それらを実感するよい機会になると思います、数十分間の座禅って。

基本的にぼくが座る時、お尻に下には座布を敷き、若干お尻が高くなるように座ります。
こうすると、無理なく背筋が立ちやすいです。
座布がなければ、クッションなどで代用しても可。
足は結跏趺坐なんて高度なものじゃなくって、適当にあぐら。
両手は開放的に開いて上を向けたまま両腿の上に楽に乗せます。
はじめ、頭のてっぺんが軽〜く糸で引っ張られているようにイメージして、背筋が無理なく自然に立つようにします。
無理に真っ直ぐにしたり、緊張しないように。
最初にこうやっておいて、後は忘れてよいと思います。
そして、目を閉じ、くつろぎます。
ぼくの場合は、呼吸につれて微妙に膨らんだりしぼんだりする体の感覚を、くつろいで眺めています。

瞑想は何かを発見したり達成するのが目的ではなくて、「観照者で在ること」なのだと思います。
体の感覚を眺めてはいますが、観照者はその対象である感覚ではなくて、眺めている観照者、意識でしかありません。
意識に映り、流れていく感覚に巻き込まれず、自己同化せず、ただひたすらに淡々と観照者で在り続けること。
ぼくが理解している瞑想って、そんなところだと思います。

なので、「ヘミシンクと瞑想の違い」を書いてから、あくまでヘミシンクはひとつのツールとして楽しく活用しています。
ある変性意識状態にフォーカスすることが出来れば、次にはそのような意識状態に巻き込まれずに、あくまでひとつの流れゆく感覚対象として眺められます。

さて、座り始めて落ち着かなくなって来たらチャンスです。
落ちつきのなさ、居心地の悪さは、思考の産物でもありますが、体の衝動や感覚でもあります。
体の感覚としての落ちつきのなさや居心地の悪さを感じてみましょう。
おそらく、イライラにも似た体の衝動やうごめき、エネルギーが、お腹や胸のあたりに感じられるのではないかと思います。

もし"それ"が感じられたらラッキーです。(^^)
"それ"を排除したり感じないようにしたりするのではなくて、ただその感覚を眺めてみましょう。
"それ"は決して固定したものなんかではなくて、流動的な衝動やうごめき、エネルギーです。
必ずうごめきや流れ、拡がりなど、なんらかの動きがあります。
"それ"に大して葛藤したり緊張したりすると「固定的」に感じられますが、くつろいで眺めることが出来れば、実感として流動的なエネルギーなのだと理解しはじめます。
楽しい〜。(^^)

ここまで来れば、あとは眺めているだけです。
そのエネルギーは、見守られることによって動き出し、拡散したり流れていったりして消えるだけ。

感覚は開いたまま、くつろいで、深く、深く、自分の中に、沈黙の中に沈潜していきましょう。


あ、そう、そう。
以前4つ書いた「武術書に見る病を去ること」で書きたかったことも、こんなことです。