日本における按摩の歴史6:・「横浜繁昌記」・「熊谷百物語」:町の按摩さん.com

日本における按摩の歴史6

  1. ・按摩の伝来・按摩伝来以前の手技療法は
  2. ・按摩関連書籍、その他年表・嬉遊笑覧・按摩の笛
  3. ・喜多院「五百羅漢」と按摩周辺・江戸期按摩立体3D石像
  4. ・按摩科・按摩治療・按摩科雑載・按摩の鈴・按摩とり
  5. ・「瞽盲社会史」第五節 按摩及び鍼術・江戸時代の按摩諸流派
  6. ・「横浜繁昌記」・「熊谷百物語」
  7. ・「福富草紙」嫗が夫の腰を踏む(足力)・「北斎漫画」・「東海道五十三次」歌川広重
  8. ・葛飾北斎「馬喰町大道彙図」・暁斎漫画「盲人群像」



これまでは、江戸時代までの按摩に関して調べてみましたが、ここからは明治時代以降の按摩を調べてみたいと思います。
もちろん、他に江戸時代以前の按摩に関して何か出て来たら順次追加していくつもりでいます。

と、実ははじめ明治時代以降までは想定していなかったのですが、国会図書館近代デジタルライブラリーの明治時代書籍データが増加してきており、面白い資料があったので追加することにしたのです。

260年も続いた江戸時代が開国、近代化しはじめる明治時代ではありますが、おそらくその風景のあちこちには江戸の名残が色濃く残っていたであろうと思われ、また、人に至っては外観や制度が変わったとしてもその中身はそう簡単に変わるものではないであろうし。
明治時代も興味津々です。

最初に紹介するのは、明治36年に出版された横浜新報社による「横浜繁昌記」。
ふたつ目は、明治45年、埼玉県熊谷市の郷土史家酒井惣七氏による「熊谷百物語」。
どちらも当時の模様を伝える新聞掲載記事です。

「横浜繁昌記」横浜新報社著作部編 明治36年(1903)

其の四 按摩

始めて横濱に來た人の耳目に著しく觸れるのは按摩の多い事であろう。
港内に汽笛の喧しい真晝中から野毛山の鐘が物凄く陰に響いて、所謂大路小路に霜凍てる真夜中まで、三尺の杖に縋(す)がつて『按摩上下(あんまかみしも)何百文』の聲音を哀れにさうに張り上げて、黒白(あやめ)も分からぬ浮世の辻に立ち止まつては物案じ顔に片手づゝ懐中に入れて温めて居る姿などは何かの畫(ゑ)にもあるやうで、横町の路次から飛んで出た犬さへも何だか吠えるに懶(ものう)いと云ふ見得である。

◎組合の組織

横濱の按摩には組合に属したものと加入して居ないものとの二種がある。

鍼治揉按業組合事務所は今ま浪花町にあって其内部は四部に區劃されてある。
即ち関内を第一部、野毛町から戸部町方面を第二部、伊勢佐木町界隈から橋を越えて萬代町以南松影町方面を第三部、元町石川乃至は山手、本牧方面を第四部としてある。

そして此の組合に属する按摩は三百七八十名内外で、本部では醫師淺水進太郎氏を推して總長とし會計長、檢査役協議員等をも置き、各部毎に正副の組長もある。

尚此の外に鈴本稲之輔、黒部與八の兩氏を擧げて名譽員として兎も角も一の團体を組織して、組合の經費は組合員一名から一ヶ月五錢宛を徴収して之れに充てゝ居るのであるが全体の按摩は組合に加入して居ないものから神奈川方面に居るものをも合したらば實際は千人の上を超えるであらう。
併し一昨年以來幾分か減つた様に思はれるのも一つは不景氣のさし響いた爲めでゝもあらう。

◎導引の一派

別に尚幕末に起つた『長崎一流導引揉療治』の一派が凡そ百名計り居る。

コレは老人等の知る處で蘭學に漢方を交ぜて一寸とした醫者の諸(いとぐち)位は覺て來たものゝ弟子、又弟子の連中で中には時勢を見て勉強を始め遂には玄關を構へる醫者となつたものある。
誰れも彼れも眼明きの事だから斷じて盲目者流とは交際をしない。
自ら高く止つて居て痛風か風邪か夫れでなくば雨でしやうなどと天氣豫報染みた事を云つて一寸藥の盛り方位は心得て居るものもある。

久しい前の事であつたが曾て南仲通一丁目に住んで居た松永森之市と云つた男が、盲目者の一統を代表して時の警察署に出頭し、近來導引一派の者が大(おほい)に跋扈して不幸なる我々盲目按摩の營業を妨げるので甚だ困るから何うにか相當の説諭をして呉れいと頼み出た事があつたが、是れは遂に取り上げにならなくつて其のまゝに濟んで仕舞つた。
夫れからと云ふものは互に仇敵の様に睨み合つて今に打解けないさうだ。
無理もない話だが(導引一派の事は是れ位にして置いて扨て本物の)盲目按摩の事を話さう。

◎出身地と募集


出身地と募集・絵:日本における按摩の歴史5:「瞽盲社会史」第五節 按摩及び鍼術・江戸時代の按摩諸流派:町の按摩さん.com

さて此の千名にも餘る男女盲目按摩の素性を尋ねて見ると、生まれながらの盲目もあり中年にして瞽ひたるもあり、中には相應の財産家の子女もあれば又遠国の落人もあつて一概には言ふ事が出來ないが、近來は所謂向地の房總二國から浮世の浪に流れ寄せられて來たものが漸次に多くなつて今では大部分が此國のものであるやうになつた。

其の由來は何うであるかと云にふに東京竝(ならび)に横濱界隈の者は按摩渡世を甚だ賤しいものに思ひ込んで居るので、容易に營むものもないけれど房總地方に行くと中々さうでない何程(いくら)盲目だとて一本立の職業を營むのに構ふ事はない。

况(ま)して人に輕蔑されるなどそんな謂れもない事をと云ふ風で却て心中誇つて居る位だから、我が横濱でも師匠側のものは多く同地に渡つて募集して來るので、哀れな不具者に向つて修行中の事から平成の収入乃至は成業の上の樂みなどを眞言空言搗(まことそらことつ)き交て説き聞かせ、徒らに親兄弟の厄介になつて居やうより寧(いつ)そ我身獨立の生活を立てた方が良からうと段々に勧め(勧めると云ふよりも唆(おだ)てると云ふ方が當つて居るかも知ない)て遂々(とうとう)納得させ、夫れから親々にも談合して十歳以上の年少者は七年、二十代のものは五年、三十代は三年と年期を定めて而かも成るべく年の若いものを選つて連れて來るのである。

◎揉賃と流し方

斯う云う具合に是等の不具者(おもに)は横濱に渡つて來てからは銘々師匠の家で普通(ひとゝほり)の按腹術をヘへられて仕事に出ると云ふ事になる。

始めは上下僅か二百文(二錢)の賃錢しか得られないので次第に修行の積むに從つて百文づゝを増して一貫文以上の腕になるのであるが、夫れは何うして中々容易な業ではない又一貫文以上二貫文位の賃錢を取るやうになると得意廻りか、餘所の迎ひを待つて居て大抵は流しに出る事も少い、曾て去る年の雨の夜中に『按摩上下六百七十文』と呼んで來たものがあつた。
如何にも刻んだ賃錢だと思つて試ろみに呼んで揉ませて見たらまた何か變はつた話しでもあらうと早速女中を走しらせて見たが最早何處へか行つた跡だと云ふので望を達しなかつたが其の後はまた竟(つひ)に其の聲をも聞く事が出來なかつた。

そこで一貫文以下の未熟者は毎日午前十一時には師匠に叱り飛ばされて『晝吹(ひるぶ)き』に出る。
夫れから夜の一時頃までと云ふものは濱名物の空ツ風に例の『按摩上下何百文』の聲を高く張り上げて部内の町々を流して歩くのである。

丁度七八年前の事であつたと思ふ時の警察は在留外人の多い此の横濱で斯様に街頭を呼んで行くのは風俗上餘り香しからぬ事だと云ふて呼聲を一切禁じた事があつたから一同は止を得ないで吹き笛に改めたが其音許りでは揉手が何んなであるか分らないので客も呼込むに躊躇する。
按摩の身に取つても得意の家に呼込まれるにも都合が悪くなつたものだから、年を經るに從つて其筋の取締が弛るむに附入つて遂にはまた舊(もと)の如く公然大聲に呼歩く様になつて仕舞つた。

◎平生の状態

是等の按摩が日常の收入と云ふものは、東京でも横濱でも左したる變りがない。

先づ一晝夜平均一人に付いて四軒か五軒の客は得られる勘定で、五百文の按腹料ならば二十錢から廿五錢、一貫文の按摩なら四五十錢を稼ぐ事が出來る譯だがさうかと云ふても晝夜かけて一生懸命に働き續けた處で、何程(どんな)巧者の者でも九人以上を揉む事は出來ないと云ふ話である。

左樣なると二百文三百文の初心者は殆んど自身の糊口さへも覺束ない事になるが一本立ちの者は兎も角平生(へいぜい)師匠の部屋に養はれて居ものは所謂夏冬の仕着せソレも甚だ不滿足な衣類を當てがはれて、日々の收入は悉く師匠に納めて居るから直ちに生活に差支へると云樣な事はないのである。

併し此の養はれ者即ち弟子逹は師匠から貰ふ月々の小遣錢は僅かに十錢以下で其の以上を受くる事が稀れであるから、幼氣の抜けない者は買喰ひにも困る。
成年者と雖へども煙草代とか郵便料とかに窮すると云ふ事になつて、其の結果からでもあるまいが中には往々揉賃の幾分を着服するものもある。
甚しきに至つては夜陰窃かに醜業を營む女按摩もある。
如何(いかゞ)はしい話しだが支那人などに雞姦(けいかん)を鬻(ひさ)ぐ少年もあると云ふ噂を聞くのは實に忌はしい淺ましい譯である。

然るに他の方面から論ずると横濱の按摩は特に風儀の亂れて居るので名高いと云ふ樣な感じがあつて、三吉町邊或は其他の木賃宿や下宿屋、宿屋などまで入込んで車夫馬丁から下等の勞働者などを相手として怪しからぬ收入を得るものもある。
又初めから醜業を營むの目的を以つて按摩の假面を被ぶるものさへあると云ふに至つては殆んどお話にならない

論より證據少し氣を付けて見たら横濱には女按摩が多くつて而かも年は若い白粉も付ける、身形(みなり)も奇麗にする中には杖も要らない眼明きがある事を知るであらう。
夫れでかゝる女按摩が平生出入する家は風儀の惡い家ではあるまいかと疑はれる位である。

マア是れは其筋の取締でも望むと云ふ位でやめて置いて扨て、彼等の師匠等が弟子を扱ふ有樣は何うであるかと云ふに、其の甚だ嚴密な事は驚くほど豫想の外で、現に前にも云つた故人森の市の如きは自身から盲目ながら夜になると町々を窃かに廻り歩いて弟子の呼聲を便りに其の弟子の勤惰(きんだ)如何を檢(あらた)めたと云ふ事である。

星の暗い風の凄い夜半などに狭い路次の小蔭に年若い相弟子等が身を潜め手を取り合ひながら修業の辛らさから平素(ふだん)の事に愚痴を並べて『斯樣な事なら始めから横濱には來なかつたんだ』などと尠(すくな)からず喞(かこ)つて『斯うして居る位なら寧そ病気にでも罹つて寝て居た方が餘程宜いワねえ』と便よりない身の不幸に泣合つて居るのを見る事もある。

斯程に呵責を受けてやうやう年期を終つた處で其の曉に一文の錢を殘したと云ふ者がない、誠に氣の毒な程であるが之に反して彼等の師匠と來たら、僅々(きんきん)ニ人の弟子さへあつたら、最(も)う店賃位は稼がせられるので、七八人以上十人も置いたときには家計は優に餘つて 暖衣飽食安 らかに過ごす事が出來るのである。

◎學校の事

其處で初心の子女を仕込むに付いては、前にも述べた通り單に師匠の家に在つて、簡易なる按腹揉療治の術をヘへられて漸次に熟達して行く許りであるが扨て相應に技能を修得せしめると云ふ段になると、是れ位の事では追付かない。

それ相當の方法を講じなければならないと云ので、曩(さ)きに一の學校を設立して今は組合事務所内に置いてある。
生徒の數は一ニ年前には五十名許りあつてニ三人の女生徒も居たが現今では三十人位に減つて女も來なくなつたのみでない、日々の出席者は僅々(きんきん)十八九名からニ十名前後に過ぎない有様である。

此の學校にも校長はあるが毎月三、八の日でなければ出勤しない。
平常は一人のヘ師(盲目者)が出て午前九時から十一時まではヘ授をする。
何分にも廣い一室へ生徒を集めて先づ大抵一人或はニ人づゝを前に座らせて、生理的の讀本をヘへる。

勿論本の必要はない(一ニの眼明きは持合わせて居るものもあるが)音讀して暗誦させるので、外の生徒は自分等の番の來るまでは、兄弟子株の者から矢張斯う云具合にヘへを受けて居る。

本職の揉み方なども同じく手を取られて覺えるので、此の學校の修業者は兎に角相應に物も判かるのだが、實際老練と云ふ事は龜の甲より年の功で仕方がない。

夫れで此學校の經費は例の組合費から支辨するが尚ほ別に生徒から一ケ月十五錢づゝの月謝をも徴收して之を補充して居る。

◎粹きな商賣屋

十歳から十二三歳位の小供按摩は上下の揉賃も二百文か三百文に過ぎない。
素より手練も何も實に覺束ないものだから、何程(いくら)此の寒空に疳切聲(かんきりごゑ)を張上げて歩いたとて呼込んで呉れる客の少いのは當然であるが併不思儀な事には此の小供按摩が却て大供よりか餘計の得意を持つて居て日々揉む客の數も慥(たし)かに勝つて居るのだ。

何故かと云ふに、是等の小供は『粹(い)きな商賣屋』と云ふ得意を持つて居る。
粹きなと云へば少し異な樣だが是れは藝妓屋、料理屋、待合乃至は遊女屋なそを指すので此處等の内には藝妓、娼妓や女中などが澤山居るので、ヤレ頭が痛めるとかヤレ肩が凝るとか云つて、さくら膏だとか、京錦なんどを顳顬(こめかみ)に貼る連中が多いからつひ按摩も呼込む事になるが、常に起居(たちい)の忙(せは)しい彼等は何時客に呼ばれるかも知れないと云ふので態々(わざわざも)揉賃の高い熟練者を呼ぶ事はしない。

一寸近い例が藝妓屋などであると先づ一人の姐さんが此の小供按摩を呼込ませて長火鉢の脇に横はつて妾(わたし)も後とで揉んでお呉れと云ふ。
又他の者も序(ついで)だからとて揉ませる。
折ネ(をりから)通がつた客でも遊びに來れば、『コンナ年も行かないに眼が見えないのは可愛想ぢやありませんか、阿(あなた)方も揉ませてお遣りなさいナ』と勸められる。
仕方がないから『ナニ揉まなくとも可いからと』云つて銀貨の一ツ位は呉れて遣る。

つまりは一軒の家で二三十錢の收入はある偶(た)まには煎豆か鹽煎餅も貰ふ。
何うしても粹(い)きな商賣屋に限ると云ふ事になるので小供は是等の家に呼ばれるのを尠(すくな)からず喜ぶのである。

粋な商売屋・絵:日本における按摩の歴史5:「瞽盲社会史」第五節 按摩及び鍼術・江戸時代の按摩諸流派:町の按摩さん.com


……其の四 按摩 終り

以下、本文を箇条書きにまとめようと思いましたが、内容が興味深くて結局自分が読みやすいように書き直しただけ、という体たらくになったみたい。(^^;

「横浜繁昌記」横浜新報社著作部編 明治36年(1903)

明治時代の横浜は按摩が多い。
昼から真夜中まで「按摩上下(あんまかみしも)何百文」という声が流れている。

◎組合の組織

按摩は組合に加入している者と加入していない者がいる。

「鍼治揉按業組合事務所」が浪花町にあり、その内部は四部に区分けされている。
・第一部:関内
・第二部:野毛町〜戸部町方面
・第三部:伊勢佐木町界隈から橋を越えて萬代町以南松影町方面
・第四部:元町石川ないし山手、本牧方面

組合に加入している按摩は370〜380名内外。
組合経費は組合員ひとりからひと月5銭徴収。

組合に加入していない者から神奈川方面にいる者を合わせると1000人以上いるだろう。
一昨年(明治34年)以来幾分か減ったのは不景気のためか。

◎導引の一派

この他、幕末に生まれた「長崎一流導引揉療治」一派がおよそ100名ほどいる。
蘭学に漢文を混ぜちょっとした医者の知識を得た人々の弟子や又弟子に当たる者たち、中には時勢を見て勉強をはじめて門を構え医者になった者もいる。
総じて眼明きなので盲目者たちとは交流しない。
お高くとまって「痛風か風邪かそうでなければ雨でしょう」などと天気予報じみたことを言い、薬の盛り方くらいは心得ている者もいる。

少し前の話し。
盲目者の一統を代表して警察に出頭し「導引一派の台頭で盲目按摩の営業が妨げられているに当たり相当の説諭を頼みたい」と願い出たがついに取り上げられなかった。
それ以来、盲目按摩と導引一派は仇敵のように睨み合い未だに打ち解けない。

◎出身地と募集

横浜に1000名以上いる男女盲目按摩の素性を尋ねてみると、生まれながらの盲目あり中年にして盲目になった者、財産家の子女、遠国の落人もあるが、近年はその大部分が房総から来た者が多くなっている。
理由としては、東京、横浜界隈では按摩渡世は甚だ賤しい職業と思われているが、房総地方では盲目であれども一本立ちした職業であり心中誇っている位だ。
横浜でも師匠側の者は房総に渡って募集してくる。
盲目の者に対して修行中の事や収入の事、成業上での楽しみなどを事実や空言を混ぜて説き聞かせ、親兄弟の世話になるより一人独立した生活をするべきだと勧め(というよりはおだて)て納得させ、両親とも話し合って連れて来る。
10歳以上の年少者は7年、20代の者は5年、30代は3年と年期を定め、なるべく年の若い者を選んでいる。

◎揉賃と流し方

横浜に渡って来てからは、銘々師匠の家で一通りの按腹術を教えられて仕事に出るということになる。
はじめは上下僅か200文(2銭)、修業が進むに従って100文ずつ増して1貫文以上の腕になるが、そうなるまでは容易なことではない。

※100文=1銭、1貫文=1000文=10銭=1円。
※「明治も20年を過ぎると大体1円=4000円ぐらいになります。」:明治4年当時の高額郵便料金
  → これで計算すると上下200文=800円からのスタートになりますね

1貫文以上2貫文位の賃金になると得意廻りか余所の迎えを待つようになり、流しに出ることは少ない。
かつて去る年の雨の夜中に「按摩上下670文」と言っている按摩がおり、いかにも刻んだ値段だと思い話しの種にと女中を走らせてみたが既にどこかに行った後で、その後その声を聞くこともない。

1貫文以下の未熟者は、毎日午前11時には師匠に叱り飛ばされて「昼吹き(ひるぶき)」に出る。
それから夜の1時頃まで浜名物の空っ風に当てられながら「按摩上下何百文」の声を高く張り上げて町々を流して歩く。

7、8年前、時の警察は在留外人の多いこの横浜でこのように街頭を声高に呼んで流すのは風俗上好ましくないと呼び声を一切禁じたことがあった。
一同はやむを得なく吹き笛に改めたが、笛のみでは揉み手が誰であるかわからないので客も呼び込みに躊躇する。
按摩にしても得意の家に呼び込まれ難くなり都合が悪くなったが、年を経るに従って取り締まりがゆるむに付け入って遂にはまたもとのように公然と大声で呼び歩くようになってしまった。

◎平生の状態

按摩の日常の収入は東京でも横浜でもさして変わらない。
ひとり一昼夜平均4軒か5軒の客が得られる勘定で、500文の按腹料ならば20銭から25銭。
1貫文の按摩なら4、50銭稼ぐことが出来るが、昼夜一生懸命に働き続けてもどんな巧者でも9人以上の者を揉むことはできないという話しだ。

※前出の計算を参考にすると:500文=2000円、20銭=8000円、25銭=1万円、1貫文=4000円、40銭=16000円、50銭=2万円

200文300文の初心者はほとんど自身の糊口さえ覚束ない。
師匠の家で養われている者は、夏冬の服も不満足な服をあてがわれ日々の収入を悉く師匠に納めているとはいえ、直ちに生活に差し支えるということはない。
弟子たちが師匠から貰う毎月の小遣い銭は10銭以下でそれ以上貰うことは稀だ。
成年者でも煙草代や郵便料に窮し、中には揉み賃の幾分かを着服する者もある。
甚だしい場合は夜陰密かに醜業を営む女按摩もいる。
支那人などに鶏姦を粥ぐ少年もいるという噂もあり、実に忌まわしく浅ましい話だ。

横浜の按摩は特に風紀が乱れているといわれ、木賃宿や下宿屋、宿屋まで入り込んで車夫馬丁から下等の労働者などを相手に怪しからぬ収入を得る者もいる。
またはじめから醜業を営む目的をもって按摩の仮面を被る者さえいる。
実際横浜には女按摩が多く、年は若く白粉も付け身なりを綺麗にし中には杖も要らない眼明きがいることに気づく。
女按摩が出入りする家は風紀の悪い家ではないかと疑われる位だ。

按摩の師匠が弟子を扱う有様について。
その甚だ厳密なことは驚くほど予想外で、ある師匠は自身が盲目ながら夜になると町々を密かに廻り歩いて弟子の呼び声を頼りにその弟子の行状を確かめたという。
星の暗い風の凄い夜半などに、狭い路地の木陰に年若い相弟子たちが身を潜め手を取り合いながら、「こんなだったら最初から横浜には来なかった」などとぼやき「こうしている位ならいっそ病気に罹って寝ていた方が余程よい」と頼りない身の不幸を泣き合っているのを見ることもある。

このような呵責に耐えようやく年期が終わったとしても、その暁に1文の銭を残したという者はない。
これに反し師匠は僅か二人の弟子さえいれば店賃になり、7、8人以上10人も弟子がいれば暖衣飽食安らかに過ごすことができる。

◎學校の事

初心の子女を仕込むには、師匠の家で簡易な按腹揉療治の術を教えられて徐々に熟達して行く。
相応な技能を修得するにはそれだけでは追いつかないので、現在は組合事務所内に学校が設立してある。
生徒数は1、2年前には50名ほどおり2、3人の女生徒もいたが、現今では30人位に減って女生徒が来なくなっただけでなく、日々の出席者は僅か18、9名から20名前後に過ぎない。

校長は毎月3と8の日ではないと出勤しない。
普通は一人の盲人教師が午前9時から11時まで教授する。
広い一室に生徒を集め、まず一人か二人ずつ前に座らせて生理的読本を教える。
音読して暗誦させるので、他の生徒は自分の番が来るまで兄弟子株の者から同じように教えを受けている。
実際の揉み方なども同じく手を取って覚えるのでそれ相応に物も覚えるが、老練というまでには亀の甲より年の功なので仕方がない。

学校の経費は組合費から出るが、別に生徒からひと月15銭ずつ月謝を徴収して補充している。

◎粹きな商賣屋

10歳から12、3歳位の子供按摩は、上下の揉み賃も200文か300文に過ぎない。
もとより手練もなく覚束ないので、寒空に声を張り上げて歩いても呼び込んでくれる客が少ないのは当然だが、逆に子供按摩の方が得意客を多く持っていることもある。
それは「粋な商売屋」という得意客を持っているからだ。
芸妓屋、料理屋、遊女屋などのいつ客に呼ばれるかわからない芸妓、娼妓が、子供按摩を呼び込む。
一人が揉まれると、他の者もついでだからと揉んでもらう。
または通ぶったお客が来たときに「こんな年もいかないのに眼が不自由なのは可哀想じゃないか。あなたも揉ませて遣りなさいな」と勧めると、仕方がないから「なに、揉まなくてもよいから」と言って銀貨のひとつでも呉れて遣る。
一軒の家で2、30銭の収入がありたまに煎り豆か塩煎餅も貰う。
子供按摩はこのような粋な商売屋に呼ばれることを喜ぶ。

 

「熊谷百物語」酒井惣七/著 埼玉新報社 明治45年(1912)

二四 按摩

▼按摩針……と流して來る不具者を見ると愍然たる同情の念が起こるが、不思議にも此の連中に至つては樂天的で「あいた目で見て氣を揉むよりもイツソ盲らが増しである」と鼻唄で居る。

▼盲目 だからと云ふて同じ人間だ、色氣もあれば慾もあるサ。
鬼も十七番茶も出花で年頃の女と來ると帯を撫でたり髪を氣にしたり當世風に結びたかるが、仕上りは後辨天前不動サ。

▼男子 と來ると三ツ紋の三百屋と學生然たるありてステツキを振廻し、君僕とやらかす。

▼熊谷 在住の按摩は77人で男46人女31人である。
内盲目者は男10女17で多くは鍼灸を兼業して居る。
此の従業者は61名である。

▼流 は吉田、杉山の二派に別れて居る。
吉田流は正眼、杉山流は盲目と相場が定まって居るらしい。

▼扨さて 按摩の効能はと云ふと身體諸部の按擦に依つて血液の循環をよくし筋肉の運動を助け體温を増加し消化を増し神経を鎮和するので殊に慢性關節痛には一層の効がある。
其施行時間は凡そ一時間で兩足に二十分、兩手に十分、背部に十五、胸部に十五分が適當である。
但し腹部に瘤腫ある時、妊娠の時乳戻の張りたる時、腹膜炎等のソ衝ある時、結石病の時等には害があるから絶對に禁止しなさい。

▼當町有名の先生は墨江町の高田光悦(76)、青木宗伯(54)の二人である。
療治代は三百文から八百文。
御弟子の相場で十五銭に成ると師匠様だ。
ソコデ平均一人一日の稼高は男が二十銭、女が十五銭位である。

▼昔 師匠は暗誦で治療講義を授けたものだが近年は盲聾學校式の點字板で獨學して居る。
扨讀み得らるべき者と來たら小野田、瀬山、中山、尾崎、藤田の五人位の者サ。

▼先ず 此の位で御暇としやう。
……按摩上下……三百文。