スピリチュアル体 自己知(存在、意識、至福):秘教の科学6:町の按摩さん.com

秘教の科学6

 

  1. はじめに 切望と緊張
  2. 沈黙の開花
  3. エーテル体 愛
  4. アストラル体 欲望
  5. メンタル体 気づき
  6. スピリチュアル体 自己知(存在、意識、至福)
  7. コズミック体 宇宙的無個人
  8. ニルヴァーナ体 非存在 無

 




スピリチュアル体 自己知(存在、意識、至福)



第五身体はスピリチュアル体だ。
スピリチュアル体に関する限り、自分自身に対する無知こそがその緊張だ。
あなたが存在する時はいつでも、自分自身を知らないことを完全に知っている。
あなたは人生を通り過ぎて行くだろう、あなたはあれこれやるだろう、あなたはそこここに到達するだろう。
しかし自己に対する無知の感覚はずっとあなたと共にある。
それはあなたの陰に潜み続ける。
あなたがいくら忘れようとしても、常に道連れとしているだろう。
あなたは自分の無知から逃げ出すことはできない。
あなたは知らないということを知っている。
これが第五レベルにおける病なのだ。


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デルフォイで神殿に〈汝自身を知れ〉と書いた人々は第五身体に関心があった。
彼らはそれに働きかけていた。
ソクラテスはずっと繰り返していた、「汝自身を知れ」。
彼は第五身体に達していた。
第五身体にとってはアトマ・ギヤナ(atoma gyana)、自己知だけが知識だ。


マハヴィーラは「自分自身を知ることによって人はすべてを知る」と言った。
そうではない。
人は自分自身を知ることによってすべてを知ることはできない。
しかし反対のことは正しい。
自分自身を知らなければ、人は何ひとつ知ることはできない。
だからこれとバランスを取るためにマハヴィーラは「自分自身を知ることによってあなたはすべてを知るだろう」と言った。
たとえ私がすべてを知っていても、もし私が自分自身を知らなければ何の役に立つ?
もし私が自分自身さえ知らないとしたら、どうやって根本を、基礎を、究極を知ることができるのだ?
それは不可能だ。


だから第五身体では、知ることと無知の間に緊張が存在する。
しかし覚えておきなさい。
私は知ることと、無知について言っているのだ。
私は知識と無知の話をしているのではない。
知識は教典から集めることができる。
知ることはどこからも集められない。
知識と知ることを取り違えるこの誤った考えのもとに操られている、非常に多くの人々がいる。
知ることは常にあなたのものだ。
私はあなたに自分の知っていることを移すことはできない。
私ができるのは知識を移すことだけだ。
教典は知識について語り、知ることについては語らない。
あなたは神聖だ、あなたはアートマンだ、あなたは自己だ、と教典は述べることができるが、これは知ることではない。


もしあなたがこの知識にしがみつくなら大きな緊張が存在する。
無知は偽りや獲得した知識や情報…借り物の知識と共に存在し続ける。
あなたは無知なままだろうが、自分は知っていると感じるだろう。
そうした時多くの緊張が存在する。
無知で、完全に「私は無知な人間だ」と知っている方がまだ良い。
その時も緊張はあるが、それほど大きくない。
もしあなたが他人から得た知識で自分を惑わしていないなら、あなたは自分自身の中を探し
求め、調べることができ、知ることが可能になる。


あなたは存在しているから、これだけは確かなことだ。
あなたが何者であれ、あなたは存在する。
これは否定できない。
もう一つのことだが、あなたは知ることができる誰かなのだ。
あなたは違うことを知っているかもしれないし、ただの妄想を知っているかもしれ
ない。
あなたの知っていることは正しくないかもしれない。
だがあなたは知っている。
それゆえに、二つのことが当然のこととなるのだ。
それはあなたの存在とあなたの意識だ。


しかし第三のことは欠けている。
人の本質的な人格は、次の三つの次元を通して考えられ得る。
存在、意識、そして至福…サッチタナンド(satcht-anand)だ。
私たちは自分が存在そのものだと知っており、私たちは知ることのできる何者かであるということ…意識そのものだということを知っている。
至福だけが欠けている。
しかし、もし自分自身の中を探すなら、あなたは三番目のことも知るだろう。
それはそこにある。
至福に満ちていることや、存在することのエクスタシーがそこにある。
そしてあなたがそれを知る時、自分自身を完全に知るだろう。
あなたの存在、あなたの意識、あなたの至福を。


スピリチュアル体 自己知(存在、意識、至福)2:秘教の科学6:町の按摩さん.com



もし至福を知らないならば、自分自身を完全に知ることはできない。
なぜなら、至福に満ちていない人は自分自身から逃げ続けるだろうからだ。
私たちの人生全体は私たち自身からの逃走だ。
他人は逃走を手助けしているという点で、私たちにとって象徴的だ。
これが私たちすべてが別のところを目指している理由だ。
もし人が宗教的になったとしても、人は神を他のものとして作り出す。
彼は再び別のところを目指すようになり、同じ誤謬が繰り返される。


だから第五身体で人は、自分自身を内側から探さなければならない。
これは探求ではない。
〈探求の中に存在する〉ことだ。