神祇時代の病理學 神祇時代の醫術 参考書籍 |
太古混沌の時代にありては、社會萬物の現象は悉くこれ神靈の所爲に出ずるものなりと信し、従て疾病の如きも之を神靈の所爲に歸せしことは世界中何れの人種の歴史にありても皆然りとす。
我神祇時代にありても『人はさらなり、天も地も、みな神の靈によりて成れるものなれば、天地の間なる吉事も凶事も、すべて神の意なり現人(うつしひと)の顯に行ふ事(顯露之事-あらはこ-)の外に幽事(神事-かみこと-)あり、顯はには目にも見えず、誰爲すとともなく、神の爲し給ふ業なり』⑨と信ぜるが故に疾病も神の心に由りて起るものなりと做(な)したり、古事記に天照太神が素戔嗚尊の無状を怒りて天石屋戸に隱れれし時の事を記するの條に曰く『於是、天照太神見畏、閇天石屋戸而刺許母理(さしこもり)座也、爾高天原皆暗、葦原中國悉闇、因此而常夜徃、於是萬神之聲者狭蠅那須(さばえなす)皆滿、萬妖(わざわひ)悉發』、同書水垣宮の段に曰く『此天皇之御代、役病多起、人民死、爲盡、爾天皇愁歎而、座神牀之夜、大物主大神、顯於御夢曰、是者我之御心、故以て意富多多泥古(おおたねこ)而、令祭我御前者、神氣不起、國安平』、又玉垣宮段に曰く『布斗摩邇邇占相(ふとまににうらへて)而求何神之心、邇崇出雲太神之御心也』、日本書紀巻九、氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)の條に曰く『時皇后傷天皇不從神教而早崩、以爲、知所崇之神、欲求財寶國、云々』『既而神有誨曰、和魂服玉身而守壽命、荒魂爲矢鋒而導師船、云々』、これ皆疾病が神の意によりて起ることを云ふなり。
疾病は神の意に因る、何神にても此方より犯すことあれば、祟りて病まするなり、故に神氣(かみのけ)の稱あり、神の祟りと云ふの意義なり、即ちこの場合にありては『疾病は神の罰なり』と信ぜるなり、後の世に物氣(もののけ)の稱あるは、死人にまれ、又生人にまれ、人の祟を爲すを云ふものなれども、これも祟をなすは神なれば、神氣と同じ意義なて古言なりと云ふ説あり⑪。
されば當時の人は生きたる神(又は人)の靈のみならず、死したる人の靈も亦祟をなして病を起こさしむるものなりと思へるなり。
神を犯して病を得るの他に、煩神、八十禍津日神、大禍津日神等の特殊なる神(荒ぶる神)ありて其神の暴戻より病を生ずることあり。
この場合にありては『疾病は災害なり』との意義を有す。
日本書紀神代上巻に『次生素戔嗚尊、此神有勇悍以安忍、且常以哭泣爲行、故令國内人民多以夭折』『一書曰、次生素戔嗚尊、此神性惡、常好哭恚、國民多天、青山爲枯、』又同書巻三神日本盤余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)の條に『天皇獨與皇子手研耳命(たぎしみみのみこと)、帥軍而進、至熊野荒坂津、時神吐毒氣人物咸瘁(おえぬ)』とあるにて之を證すべし。
此の如く、疾病の發生を以て之を神の所爲に歸するは、希臘(ギリシャ)の太古醫學史に、疾は魔(Dilmonen)の所爲にして、魔は元とこれ神に出ず、これに善と惡とありて、一は病を起し、一は病を治すと云ふに類し。
支那の古書に、疫神、厲鬼、邪鬼、瘧鬼等の説(老子に曰く、以道天下、其鬼不神、非其鬼不神、其神不傷人と)あるに似たり。
太古醫學の研究には、歴史上の事實に依るの外、猶ほこれを野蠻人種の間に行はるる醫術に對照し、比較研究をなすことを裨益ありとす。
試に現在野蠻人種が疾病及び其發生の因由を如何に解釋するやを見るに、病の多くは惡魔なりとし、又之を死したる人の靈又は動物の靈なりとし、神の罰、神の意、又は神の贈物なりと云ひ、又は一個の動物、異物、毒物、身體一部の消失となす、而して之を發するは諸種の惡魔、動物、異物、惡風、妖術等の所爲に因るものとす。
これ疾病の多般にして、其因由の一様ならざるより、單に神の意、若くは罰を以て、悉く之を説明すべからざるを以てなり⑱。
(現時北海道の一部に存する所の「アイノ」人種は、神祇時代の頃、本土に住居せる蠻民にして、文字を有せず、故にこの人種が口碑に傳ふる所の疾病に關する説話は、依りて以て我太古の醫學を攻究するの資料に供すべし⑲)。
我神祇時代に於ける病理學も亦此の如くにして、疾病の因由は神の靈以外に、尚ほ田の原因に出ずるものあるを知れり。
即ち疾病は此の如く、神の祟、人の祟に因りて起るの他、人の身に穢氣惡毒あるによりても病のこれに乗じて起ることあり、伊邪那岐神が黄泉國にて汚穢に觸して煩神、禍津日神、素戔嗚神等の惡神を産みしが如き、これなり。
人の身に不祥の行爲ありても病の起ることあり、伊邪那岐神、伊邪那美神が天柱を廻ぐるとき、陰神先ず唱えしこと、陰陽の理に違へりとて、生れたる神(蛭兒神)が三歳に至るも脚尚ほ立たざりしと云ふが如きこれなり。
これ等は人の身に穢氣、惡毒あり、若くは其行爲に正しからざることあれば、獨り其身の病に惱めるのみならずして、其毒を子孫に傳ふるものなることを説く。
これ後の世に所謂胎毒にして、疾病の先天性原因を認めたるなり。
支那の後漢書(東夷列伝)に我邦の事を記するの條に『行来度海、令一人不櫛不沐不食肉、不近婦人、名曰持衰、云々、如病疾遭害、以爲持衰不謹、便共殺之』とあり。
魏志(倭人傳)杜佑通典(東夷上)等の諸書にも同様の記事あり。
自衰とは肉を食わず、婦人を近づけず、喪人の如くなるを云ふものにして、其行を修むることの謹嚴ならざるより疾病を起すことを説く。
これも亦我が神祇時代に行はれたる見解なるべし。
神を犯せるにもあらず、「荒ぶる神」の所爲にもあらず、又その身に穢氣惡毒あるにもあらず、偶然の事故のために、自然に疾病を生ずることあり、伊邪那美神が火神を産みしとき、悶熱懊悩を生ずることあり、素戔嗚尊が宮殿の下に陰かに糞を入れ置けるに天照太神これを知らずして糞上に座し、よりて擧體不平と云ふが如きこれなり⑦。
この場合にありては毒物に中あたりて疾病の起ることあるを認めたるなり。
疾病を以て神の意なりとし、又は之を邪神の所爲に歸し、若くはその身に穢氣、惡毒あるに因るとするも、疾病その物は、一個の物體として、この異物が外界より身體内に入るものなりと信ぜるなり。
故に之を療するの方法も第一に
祈 にして、病あれば乃ち占合して(鹿の肩骨に刻し、樺皮を以て之を焼き、其粉末の状を見て之を判するなり)神敎を仰ぐを旨とし、歌舞して祈し、以て神靈を調和せり。
古事記神代上巻に曰く『伊邪那岐命、云々、爾拔所御佩之十拳劍而、於後手布伎都都、逃來、猶追、到黄泉比良坂之坂本時、取在其坂本桃子三個、持撃者、悉逃返也、爾伊邪那岐命、告桃子、汝如助吾、於葦原中國所有宇都志伎青人草之、落苦瀬而、患惚時、可助告、賜名號意富加牟豆美命』これ桃を用ひて鬼を避くるの縁なり⑫。
延喜式(鎮火祭祝詞)に曰く『神伊佐奈伎、伊佐奈美及命、妹背二柱嫁繼給(とつきたまひて)、云々、麻奈弟子(まなおとこ)爾、火結神(ほむすひのかみ)生給、美保止被焼(みほとやかえて)、石隱、云々、與美津枚坂(よみつひらさか)爾至座所思食久(おもほさく)、吾名命(あかなせのみこと)能所知食、上津國(うへつくに)爾、心惡子乎、生置、來奴止、宣、返座、更生子(みこをうみます)、水神、匏川菜(ひさこかはな)、埴山(はにやま)姫、四種物乎生給、此能心惡子乃心荒比曾波、水神、匏、埴山姫、川菜乎持、鎭奉禮止、事敎悟給支(ことおしへさとしたまひき)』これ水、匏川菜、埴を用て、火神の荒ぐるを防ぐべしとの意にて、火傷又は疫熱を治むるに此薬方を用ひしなるべし⑫。
職員令集解に曰く、『古記云、饒速日命、降自天時、天神授瑞寶十種息津(おきつ)鏡一、部津(へつ)鏡一、八握(やつか)劍一、生玉(いくたま)一、足玉(たりたま)一、死反玉(まかるかへしのたま)一、道反玉(ちかへしのたま)一、蛇比禮(おろちのひれ)一、蜂比禮(はちのひれ)一、品之物比禮(くさくさのもののひれ)一、敎導、若有痛處者(いやむところあらは)、合茲十寶、謂一二三四五六七八九十(ひとふたみよいむななやここのたりや)云而布瑠部(ふるへ)、由良由良止布瑠部(ゆらゆらふるへ)、如此爲之者、死人反生矣』、これ後の世に鎭魂祭(みたまつり)とて行はるる事の本なり。
鎭魂とは身體の惱の出來、また魂の徳用(はたらき)弱くなるとき、その遊離せるを招き復へして中府に鎭むるの方なり⑬。
鎭火、鎭魂の祭りの他、新嘗、月次等の祭は主として壽の長からんことを祈り、鎭花の祭は専ら病をあらせざる祭にして、病あるときは大祓、道饗祭を行ふを例とせり。
これ固より祭なれども、病を治むる方にとりては尚ほ禁厭なり。
藥物内用 祈、禁厭、一歩を進めて藥物を内服するに至りしも、禁厭の創まりし時代を距ること遠からざるべし、平田篤胤①④が太古の藥物は貼傳せしのみ、これを飲むことは唐土より傳はれりと云ふは誤なり。
但し疾病は神の意なりとせしことなれば、藥物の内用にもせよ、其病を療するは、直しき神の御靈によるものとせしなり。
されば藥物の内服も禁厭の意に出でしことは明にして、固より始より其藥力的作用を求めしにはあらず。
藥物の内用は酒を以て其始とすべし。
素戔嗚尊の時已に酒あり、又少彦名神は造酒の神なりと云ひ、大國主神の酒を醸せしことも諸書に見えたれば、酒の古くより用ひられたるを知るべし。
これ支那にありて、酒を以て藥物の始とすに異ならず。
外科 山に入りて猛獣に傷けられたるを療し、或は誤まりて手足を傷ふり、竹林を刺せるを治し、或は戰ひて創を蒙むれるを療する等、外科的の處置は人類の創始と共に必要あるものにて、我神祇時代にありても既に此等の方法あり。
而も其處置は大抵藥物を塗抹外敷するの止まりしなり。
古事記神代上巻に曰く『其八十神各有婚稻羽之八上比賣(いなばのやかみひめを)之心、共行稻羽時、於大穴牟遅神負(ておひて)爲從者率往(ともびととしていてゆきき)、於是到氣多之前(けたのさき)時、裸菟伏也(あかはたかなるうさきふせり)、爾八十神謂其菟云、汝將爲者(いましせむは)浴(あみ)此(の)海鹽(うしほ)當(たりて)風(の)吹(くに)而伏(ふしてよと)高山尾上、故(れ)其菟從(ままにして)八十神之敎(ふる)而伏(ふしき)、爾(ここに)、其鹽隨乾、其身(の)
皮悉(に)風(に)見(れん)吹拆(きさか)、故痛苦(かりにいたみて)泣伏者、最後(いとはてに)之來(きませる)大穴牟遲神、見(て)其菟、云々、是大穴牟遅神、敎告其菟、今急往此水門、以水洗汝身、即取其水門之蒲黄、敷散而、輾轉其上者、汝身如本膚必差、故爲如敎、其身如本也、』これ外傷に蒲黄を用ひたるなり。
又同書に『故爾(かれここに)八十神怒欲殺大穴牟遅神共議而、至伯伎國之手間山本云、赤猪在此山、故和禮(われ)共追下者(ともおひくだりなば)、汝待取、若不待取者、必将殺汝、云而、以火焼似猪大石而、轉落(まろめしおとし)、爾(かれ)追下、取時、即於其石所焼著而死、爾(ここに)其御祖命(みおやのみこと)哭患而、参上于天請神産巣日之命、時、乃遣蚶貝比賣(きさがひひめ)與(とて)蛤貝比売(うむぎひめ)令作活、爾(かれ)、蚶貝比賣(きさがひひめ)岐佐宜(きさげ)焦而(こがして)、蛤貝比賣(うむぎひめ)持水而、塗母乳汁者、成麗壮夫而、出遊行、』これ火傷を治するに蚶貝を黒焼きとなして塗敷するの法を用いしなり。
然れども稱々後の代に至りては塗抹外敷の他に、刺鍼の術も亦行はれしものか、支那の古醫書素問異法方宜論に『黄帝問曰、醫之治病也、一病而治各不同皆愈、何也、岐伯對曰、地勢使然也、故東方之域、天地之處始生也、魚鹽之地、海濱傍水、其民食魚嗜鹹、皆安其處美其食、魚者使人熱中、鹽者勝血云々、其病皆爲癰瘍、其治宜石、故石者、亦從東方來』とあり。
其東方の域、天地の始めて生する所と云ふは我邦を指したるならむ。
素問の書は古人の名に假託せる僞書なりと云ふと雖も其今に存するものは少くも彼邦秦漢の世の作なり。
秦漢の代は我朝の紀元五百年前後(西暦紀元前百五十年前後)に當れば、石の術の已に我神代より専ら行はれしが、遠く支那にまで傳はりしならむと思はるるなり。
石を用ひしさまは、傳亡びたれは、詳ならぎ。
然れども扁鵲傳に『上古之時、醫有兪附、治病不以湯液醴酒、石橋引、云々』『扁鵲乃使弟子子陽厲鍼砥石、以取外三陽五會』『疾居理也、湯熨之所及也、在血脉鍼石之所及也』とあり。
又山海經に『高氏之山、有石如玉、可以爲鍼即石也』とあり。
本草綱目にも『古者以石爲鍼、季世以鍼代石、今人又以瓷鍼刺病、亦之遺意也』と云へるを見れば、石を鍼とし用ひ、血を取りしものか、我神祇時代には已に鍼もありしと云へば、膚肉に針して血を取りしこともありしならん。
日本書紀允恭天皇紀に『即選吉日、跪上天皇之璽、雄朝津間天之稚子宿禰皇子謝曰、我之不夭、久離篤疾、不能行、且我既欲除病、獨非奏言、而密破身治病云々』とあるは、思ふに鍼にて血を取りしものか。
刺鍼の術を以て後世朝鮮又は唐土より傳はれりと云ふ①⑥は遽に信し難し。
産科 何れの邦にありても、其太古の醫術にて、外科に起りしは産科なり、渾沌の世にありて既に産婆の存せしことにて之を證すべし。
我神祇時代にありても伊邪那美神の時、既に産室の備あり、産する時には必ず新に家を建て、これを産屋と曰ふ、産畢(おえ)れは火を以て室を焚きたり。
(古事記木花開耶姫の條下に見えたり)、助産に關する技術の既に此間に存せしことを想ふべし。
兒科 木花開耶姫の産に方り、竹刀を以て其兒の臍帯を截(き)りしことあり、又乳母を以て其の兒を養ひしことあり、これを兒科の濫觴(らんしょう)とすべし。
眼科、耳鼻科等 の治療法につきては史籍上には記述をも見ず。
藥物 太古の醫術にありて、藥物として應用せらしものは主に草木の皮、根、果實及び葉と、一二動物の臓器となりしことは之を推察するに難からず。
試みに古事記神代巻に載せられたる植物及ひ動物の稱呼を檢するに、其數甚た多く、植物にては葛、葦、薄(すすき)、比々羅木、樺、桃、赤酸醤、蘿(つた)、檜、檍(もちのき)、椹(さわら)、眞賢木(まさかき)、茜、蒲陶、蒲黄(ほおう)、海布(め)、竹、海(こも)等あり、動物にては、(ぬえ)、雉、鷄、千鳥、鴨、翠鳥(そにとり)(すいちょう:カワセミ)、鵜、鼠、蜂、蠅、白兎、猪、鷺、蛾、蟾蜍(せんじょ:ヒキガエル)等あり、其中にて蒲黄、桃の如きは現に之を治病の用に供せられたること已に史に見えたり(第十五頁、十八頁参照)、思ふに其他のものも、或は之を藥物として應用せられたることあらん。
支那の漢の代、王充が論衝巻第八に『周時天下太平、越裳(ベトナム付近の国)献白雉、倭人貢鬯草 食白雉服鬯草』又其巻十九に『成王之時、倭人貢鴨草』とあり、鬯は古の鴨字にして、香草なり、祭祀に酒に和して地に灌げば其氣を高遠に達して以て神を降すの効あり、後に返魂と名づくるものならんと云ふ。
按するに周成王の時は我邦の神代の末に當る、乃ちこの香草の當時我邦にも行はれたるを知るべし。
佐藤方定⑮は仁古太(人参)於宇(附子)保寶加志波(厚朴)阿満紀(甘草)依毘須加良美(胡椒)爾須那(丹砂)伊奴万面(巴豆)飫賓師(大黄)の八藥を擧げ、この八藥は我邦神代時代より已に存せしものなることを詳述せり。
其説の基づく所は延喜式に此等の藥物を毎年貢物に添て奉れり、當時これを添物と稱して人皇初代より仕來の恒例なればなりと云ふにあり。
此説は猶ほ深く攷ふべきことなり。
水治法 沐浴、灌水等、單純の水治法は已に神世七世の末の頃より行はれたり、これ身體の汚穢は疾病の因をなすものなれば祓除して其病を治せんとするの意に出でたり。
出雲國風土記に『大神大穴持命御子、阿遅須枳高日子命、御髯八握于生(おつるまて)、晝夜哭坐(なきまして)之、辭不通、云々、爾時其津水吸出、而御身沐浴座(そそきましき)、云々』とあり、支那の書、兩朝平壌録(巻四)潜確居類書(巻十三)等に我邦太古の風俗を記するの條に『其俗信巫、疾無醫藥、病者裸而就水濱、杓水淋沐之、面四方、呼其神、誠即愈』と述べたるを見れば、當時我邦の俗は醫藥を内用するよりも(醫藥なしと云ふは誤聞なり)、寧ろ水治法等自然の治療力を採り用ひしことの盛なりしを知るべし。
温泉に浴して病を醫することも、大穴牟遅神、少名毘古那神の頃に初まれり。
伊豫國風土記に曰く『湯郡、大穴持命、見悔耻、而宿奈毘古那命欲活、而大分速見湯自下樋持度來、以宿奈毘古那命、浴者、間、有活起居、然詠曰、眞寢哉、踐健跡處、今在湯中石上、凡湯之貴奇、不神世時耳、於今世、染疹痾萬生、爲除病存身要藥也 』。(續日本記に引く所に依る)
灸法及び按摩 は我神祇時代の記録に見えず。
思ふにこれ等の治術は唐醫方の輸入にして、之を彼より我に傳へたるものならん。
①日本石器時代の住民 醫學博士小金井良?著
東洋學藝雑誌第二五九及二六〇號著
日本石器時代人民論 理學博士坪井正五郎
東洋學藝雑誌第二六一、二六三及二六五號
②日本考古學 八木奘三郎著 明治三十六年刊行
③日本石器時代の梅毒に就いて 醫學博士足立文太郎著
東京醫學會雑誌第九巻十四及十六号
④Adachi, Syphilis in der Sleinzeit in Japan. Archiv u.
Syphilis. 1903.
⑤Neuborger u. Pagel, Handbuch d. Geschichte d. Bd. I. S. 4. 1902.
⑥古事記三巻 太安麿奉勅撰 和銅五年成
⑦日本書記三十巻 舎人親王及太安麿奉勅撰 養老四年成
⑧古語拾遺一巻 齋部広廣成撰 大同二年成
⑨古事記傳 本居宣長著 天保十五年刊 巻九 第五十九葉
⑩同上 巻十二第六葉
⑪同上 巻二十三第二十七葉
⑫奇魂一名尚古醫典二巻 佐藤方定著 天保二
⑬信友随筆一巻 伴信友著 百万塔本
⑭志都之石室二巻 平田篤胤著
⑮備急八訳新論三巻 佐藤方定著 安政四年刊
⑯醫方正傳二巻 花野井有年著 嘉永五年刊
⑰古醫道沿革考 權田直助 學藝志林第八〇及八一號
⑱Max Bertels, Die Mediclin der Naturvolker. 1893
⑲あいぬ醫事談一巻 醫學博士關塚不二彦著 明治二十九年刊行
⑳Chamberlain. Transactions of the asiatic society of Japan.
Vol.Ⅹ. Suplement. 1883
21.Florenz, Nihongi.
22.W.G, Aston, Nihongi Transactions & proceedings of the Japan
society. London. 1896.