玩具修理屋
こんにちは、Puruさん。お久しぶりです。「願立剣術物語」ようやく一通り大まかに読んでは見れました。私の理解力では多分穴だらけでしょうが(笑)。確かに今まで読んだことのある剣術書、武術書系のものとは受ける印象が違います。外部の対象に自動的に癒着してしまう自我意識の働きや、潜在意識の歪みと身体の歪みとの並行関係の指摘などとてつもない奥深さを感じます。又、朗読していると何となく体内の気が清浄になってくるような感じがしてまるで祝詞か真言でも唱えているような気がしてきます。
深層心理学やロルフィング、アレクサンダーテクニックといった高度なボディワークの理論とも通じるところがあって興味深いです。それと五輪書や新陰流系剣術書で言っていることがより分かった気がします。
個人的には意味が分からなくても印象に残る文章もあって本当に不思議です。
第三十四段「敵の怒りは我と砕け落ち、敵も独り行き、我も独り行く道なり
第六十段「ただ時々刻々に我独り、立ち上がって見よ。今の今を行くより他なし」
といったようなものです。今後も読み込んでいくつもりですがこれだけのものですから岩波あたりから書籍化してくれればいいのにと思っているんですけどね。
それではまたなにかありましたら。
おおいそ
Puruさん、はじめまして。昨年はじめて拝見して以来、熱心さに感激しております。はじめて書き込み致しますのは、(ちょっと宣伝がましいので不適切とお感じでしたら、削除して頂いて構いません)あマ指の施術情報をマッサージスコアという楽譜のようなもので表そうとしておりまして、臨床の傍ら機械を作り、その機械を用いて発表、DVDを製作したものでご意見など願えればと思ったからです。
導引口訣鈔、按摩手引などに見られるその文言を読み解くことはとても重要とおもいますが、実施の施術を反復練習するために必要な「圧加減」を表せたらなあ、と感じています。
http://massagescore.info
よろしければご覧下さい。また
書き込みさせて頂きます。
玩具修理屋
こんにちは、Puruさん。私は剣豪・時代小説は好きなので隆慶一郎先生は存じています。「柳生非情剣」だけは読んだことあります。弟が特にファンでしたね。
「死ぬことと見つけたり」読んでみます。ありがとうございます。ちなみに剣豪小説では戸部新十郎先生の短編集が特に好きです。剣という「逆縁の世界」に生きる剣士たちの孤独と哀しみを独特の風雅な文体で描いた作風が好きです。おすすめは
「秘剣水鏡」(徳間文庫) 「秘剣花車」(新潮文庫)ですね。
今、「願立剣術物語」の全文復刻をインターネットで手に入れて漢和辞典片手にジタバタしながら読んでいます(笑)。実に興味深いものがあります。ひととうり読めたらまたご報告させていただくかもしれません。
こんにちは、はじめまして。
有益なページを公開してくださり、誠にありがとうございます。
当方のブログ
「東洋療法研修資料集」http://omlinks.cocolog-nifty.com/
にリンク設定させていただきたく存じます。
差支えがございましたら、速やかに対処いたしますので、ご連絡いただきますようお願い申し上げます。
今後ともよろしくお願い申し上げます。 (byIKKOU)
puru
こんにちは、玩具修理屋さん。
>深層心理学や身体技法に興味や実践したりするのもいかに「恐怖とダンス」を踊れるかということが直接、自分の生存(社会生活)に関わるからです。
”「恐怖とダンス」を踊れるか”という表現、好きです。
「恐怖を取り除く」などではないところが。
>おもしろいのは「足」に自立心や行動への恐怖といったテーマがあるということで、これは私自身の個人的体験からいっても事実だと思います。
同感です。
片足に優しく丁寧にチュアカをして、その後ゆっくりと立ち上がり、足の感触を味わうのが好きです。
まだ働きかけていない方は、何やら硬直した棒のようにも感じられ。
チュアカをした方は、感覚がふっくらと繊細になっていて、心許ない感じがして体重を乗せるのが怖くなったりします。
この怖さや不安感、心許なさが好きです。
その感覚の中に落ちていくように体重をあずけていくことが。
>私見ですが寺院やアシュラムのような安定した密室的な環境で生まれた技法より戦場のようなナマの現実の中で戦士や武士たちが生み出した呼吸法やマッサージのような技法の方が効果が高いし、現代人には必要なのかもしれませんね。
隆慶一郎氏の「葉隠」を小説化した「死ぬことと見つけたり」を思い出しました。
その中で、主人公は毎朝目が覚めると、起きあがる前に十全に死に切る、という描写が出てきます。
おのれが死ぬ様をありありとリアルに思い描き、毎朝異なる死に様で死に切る。
その死に切ることで、逡巡したり恐怖に立ちすくむことなく、おのが努めをその場その場で全うすることが出来る、という鍋島藩士の心得。
毎朝「恐怖とダンス」、ですね。
怖いこと、不安なことをトコトン思い描き、それをイメージや想像の中で十全に疑似体験してみる、というのは意外と良いアイデアかも知れませんね。
玩具修理屋
こんにちは、Puruさん。お久しぶりです。その後、チュアカを実践してみました。
プリントアウトしたものを見ながらやったのであまりうまくいったとは思いませんが新鮮でおもしろい体験でした。慣れてくればもっとうまくできるとは思います。確かに筋肉の緊張を取るだけでなく、感覚の深化というのも目的だと思います。
おもしろいのは「足」に自立心や行動への恐怖といったテーマがあるということで、これは私自身の個人的体験からいっても事実だと思います。
私には子供のころから得体のしれない恐怖心があってそのためにずっと苦しんできました。深層心理学や身体技法に興味や実践したりするのもいかに「恐怖とダンス」を踊れるかということが直接、自分の生存(社会生活)に関わるからです。
おそらく、モンゴルの戦士たちは戦場に出陣する時には緊張を取り、帰って来たときには戦場でのトラウマを身体から取り除くために行っていたのでしょう。私見ですが寺院やアシュラムのような安定した密室的な環境で生まれた技法より戦場のようなナマの現実の中で戦士や武士たちが生み出した呼吸法やマッサージのような技法の方が効果が高いし、現代人には必要なのかもしれませんね。
だるま
<体にも、体独自の気分や感情、想いがあり、それを感じ取ろうとする、その姿勢。
こういう姿勢(態度)は忘れていました。
ここ数日、自分のからだの感覚、感情と対話をしていますが、曖昧さの中に安心感が存在しているようですね。
楽しみながら、探求の旅をしていきま~す。
puru
>セルフマッサージなのですか。難しそうですね~
>自分の感覚がしっかりしてないと迷ってしまいますね~
全然しっかりとしてなくても良いのよ。
自分の「気分や感情に意識を向けてみる」ということが一番大切なこと。
何でもそうだと思うのですが、感覚を探求するということも、その「探求する」ということに意味があるのであって、そこで何かを見出したり理解したりというのは、極論してしまえばさして重要ではないと思うのです。
探求には終わりはないし。
探求自体が愉しいこと。
「やれば出来る」というのも、「出来る」ことなんかより「やる」ことにこそ意味があるのだと思っています。
愛おしむように自分の足に触れ。
足の気分や感情、想いに意識を向けてみる。
尋ねるように、聞き耳を立てるように。
足の気分や感情、想いをハート(胸)に吸い込むように、優しく呼吸しながら。
そんな雰囲気や空気、行為自体こそが貴重なのだと思います。
体にも、体独自の気分や感情、想いがあり、それを感じ取ろうとする、その姿勢。
これは、別にチュアカだけではなくて、仰向けに寝て自分の両足に意識を向けてみる、そんなやり方でも出来ますよ。
両足に意識を向けて、左右の感覚の違いを感じてみる。
足の感覚、その質感や形はどんな感じなのか。
その時に浮かぶ、質感や形のイメージは……。
そして、感覚やイメージだけではなく、気分や感情、想いにも網を拡げてみる。
優しくゆったりとハートで呼吸するようにしつつ。
みたいな感じで、いろいろな意識の向け方が出来るです。
もちろん、治療中にも。
だるま
プルさん、サンキュウーです。セルフマッサージなのですか。難しそうですね~
自分の感覚がしっかりしてないと迷ってしまいますね~
puru
>チュアカができる人はいらっしゃいますか? 是非体験したいのですが・・・・・・
チュアカは基本的にセルフマッサージなのですよ。
これに類するボディーワークとしては、マッサージ的な働きかけを含むものではロルフィングやヘラーワークというものがあります。
その他にはバイオエナジェティックスやバイオシンセシスなどありますが、日本で受けられるかどうかは不明です。
>チュアカの説明を見て、心理面からも知る必要が出てきたようです。
ひとりで出来るバイオエナジェティックスが参考になるかも知れません。
ですが、昔出ていた様々なワークが図入りで載っていた本は既にない模様。
その後出た春秋社の「バイオエナジェティックス 原理と実践」も既に絶版のようです。
先日お知らせしたぼくの資料室みたいな所には、バイオエナジェティックスと同系統のバイオシンセシスの資料があります。
参考になるかもですよ。
だるま
プルさん、チュアカに興味がでてきました。チュアカができる人はいらっしゃいますか? 是非体験したいのですが・・・・・・
僕は、なぜか分からないのですが、妙に足首にこだわってしまうのです。足首は膝や腰と違っていつのまにか痛みが消えてしまい、からだのバランスを崩す元になってしまうのです。
チュアカの説明を見て、心理面からも知る必要が出てきたようです。
puru
おぉ、こんな、人通りのほとんどない場所へようこそです、だるまさん。(^^)
>私が操法の柱としている足首の操法がより深く理解と探求が出来そうです。
あぁ、なんかわかる気がします。
だるまさんの操法は見たことないですが。(^^ゞ
ぼく自身は、四肢末端の按摩は得意じゃないです、ほんとに。
ただ、自分自身の体の探索としては、足や足首、立つこと、これらは永遠に続くことだと思っています。
今日はちょっと暇なので、あはき柔法に指圧が組み込まれた経緯や療術を調べ直したりしてました。
気が向いたら、いつでも書き込んで下さいね。
だるま
プルさん、チュアカ面白そうですね。私が操法の柱としている足首の操法がより深く理解と探求が出来そうです。
puru
はじめまして、玩具修理屋さん。
ようこそいらっしゃいました。
>しばらくは、チュアカを実践してみたいと思っています。チュアカの考え方には実に興味深いものがありますね。
チュアカが出来た時代や背景を考えると、やはりウィルヘルム・ライヒやアレキサンダー・ローエンの流れの延長線上にあって、「筋肉の鎧」の"開放"を主目的としたワーク、ということになるのでしょうか。。
ただチュアカの場合は、自分が自分に働きかけるのが基本のワークなので、ライヒアンやバイオエナジェティックス以上に繊細さが要求されるように思います。
感覚を開いて、繊細に……。
自分の手の感覚が自分の足の感覚に、問いかけるように触れていき。
柔らかくて暖かい感覚の空間で一体となり。
感覚は更に繊細に深まって……。
みたいな感じで行っていると、「筋肉の鎧」の"開放"というよりは、感覚の覚醒&深化は主目的なのではないかと思います。
感覚の覚醒&深化により、二次的、必然的に「筋肉の鎧」の"開放"は生じてしまっている。
>今は、甲野善紀氏や高岡英夫氏の方法論、メソッド
高岡氏の「ゆる」をチュアカ的に行うのも素敵だな、と読みながら思いました。
「ゆる」をしながら、「ゆる」をしているパートに耳を傾ける。
「ゆる」で感覚を揺り起こし、感覚の中に深く入っていき、感情や気分、浮かんでくるイメージにも耳を傾けてみる。
皮膚、筋肉、内臓、骨、それぞれに対しても。
って、面白そう。
今度やってみることにします。
アイデアのキッカケ、さんきゅです。(^^)/
玩具修理屋
初めまして。チュアカを調べていてここにたどり着きました。大昔にヒーリングマガジンという雑誌に載っていたということは知っていましたがPURUさんが書かれたものとは知りませんでした。
個人的にはグルジェフの<グルジェフムーブメンツ>、カスタネダの<マジカルパス>、田中守平の<太霊道>、平田内蔵吉<経絡体操>のような失われた身体技法や秘儀的な魔術的肉体訓練に関心があります。チベット体操の<ツァルン>は私もスパスパで録画していたので実践もしましたがあまり自分には物足りなかったですね。今は、甲野善紀氏や高岡英夫氏の方法論、メソッドとマジカルパスを実践しています。
しばらくは、チュアカを実践してみたいと思っています。チュアカの考え方には実に興味深いものがありますね。それでは、また、何かありましたら書き込ませてもらいます。
puru
あ。
英さん、「水のように龍のように」って、アドレス変わりました?
puru
おぉ、英はん、いらっしゃいませ。
もう、ウチにあるページは無承諾で自由にリンクしてくだされませ。
何せ、読んで貰うことも目的に作ってますから、うれしい限りです。
按摩、日本の古典から、今は中国内丹のおべんきょまで手を伸ばしてまして。
mixi覗く時間がもったいないの。
たまに、ココや気まぐれ板にも遊びに来てね。(^^)/
あ・・・
↓ 英(はな)でし。
こんにちは^^
玄米正食批判試論、mixiで紹介させてもらっちゃいました。
事後承諾(毎度?(^^;))でごめんなさい。
mixiに戻ってきませんか?
puru
はじめまして、ダリーさん。
ようこそいらっしゃいました。
>有害性の証明よりも、無害性を証明する事の方が難しいと思いますがいかがでしょうか。
>100%無害であると断言できる方は、よほどの自信家なのでしょうね。
人が関わるものは、すべてリスクが伴うものだと思います。
人体然り、人生然り。
法律や制度、資格、免許においては尚更。
ぼくとしては、形よりも質に関心があります。
有害性の証明よりも、無害性を証明する事の方が難しいと思いますがいかがでしょうか。100%無害であると断言できる方は、よほどの自信家なのでしょうね。
ダリー
puru
こんにちは、さららさん。
>確かに。yunnでした(笑)。
おぉ、やっぱyunnさんでしたか。
>>個人的にこの件に関しては、法運用は現状どうなっているのか、が主な興
>>味の焦点だったので、
>
>この分野にとっては希少な視点で(笑)
多くの有資格者の「そうであろう」「そうに違いない」的な自分の立場からのみの観念的意見には、論理的に見ても共感出来ませんでしたのです。
有資格者故の高ビーな意見ばかりが流通していて、実際のところはどうなんだろうと調べだしたのですが、結果は日本政府はかなりバランスが取れているな、という感じ。
一部有資格者の偏狂的視点ではなく、公衆の利益と安全という視点から見たら当然といえば当然の法運用なのだと思いました。
>立場を問わず役に立ってると思います。
単に有資格者の顰蹙を買うだけかもですが。
>平和的意見でさすがです(笑)
うん。
ぼくやぼくのまわりは平和ですから。(^^)
脳天気というか。
>現状の中でどのようにみんなが素敵に動けるのか、なんて、素敵に動いてる
>人は法律とは関係なしに素敵に動いてるとしか思えないけどなあ。
うん。
問題だ、問題だ、と騒いでる人は、問題を抱えているが故に素敵でもしあわせでもないのだと思います。
けど、さららさんが言うように、素敵に動いてる人は法律とは無関係に素敵に動いてる。
>もう少し現状と法律の解離またはムリがないのがいわゆるよい社会なんじゃ
>って思うです
前はぼくもそう思ってたけど。
最近は、法運用はかなりうまくやってるじゃん、みたいな感じ。
>まあこれはこれで。最近漬け物のできはどーですかぁー
最近は、もっぱら浅漬けっす。
味噌漬けは、消費量がかなり減って来ています。
季節によって体が欲するものが変わるんですね。
不思議な感じもするし、当たり前といえば当たり前なような気もするし。
冬の間欠かせなかったニシン漬けは、今は全然食べたい気がおきないし。
今はキュウリとキャベツの浅漬けが主力ですが、これからはナスが楽しみですね。
むふふ。
さらら
puruさんへ
確かに。yunnでした(笑)。全く覚えておりません。どっから考えたHNだったかなあ。あのときは生意気な物言いでどうぞ失礼をお許しください。
>個人的にこの件に関しては、法運用は現状どうなっているのか、が主な興味の焦点だったので、
この分野にとっては希少な視点で(笑)、立場を問わず役に立ってると思います。
>法律が出来た方が良いのかどうかは分かりませんが、現状の中でどのようにみんなが素敵に動けるのか、には興味あるかもです。
平和的意見でさすがです(笑)現状の中でどのようにみんなが素敵に動けるのか、なんて、素敵に動いてる人は法律とは関係なしに素敵に動いてるとしか思えないけどなあ。もう少し現状と法律の解離またはムリがないのがいわゆるよい社会なんじゃって思うです
まあこれはこれで。最近漬け物のできはどーですかぁー
こんにちは、さららさん。
>私は2004年にこの件に関して多少カキコしたもんです。
2004年といえば、変雀さんとyunnさんという人が「按摩Swiki」上の「マッサージ等法律関連板」に書き込んでくれていました。
でも、Swiki自体が先月から接続不能になり、今は別のアドレスで仮に稼働してます。
上のリンクも仮なので、数ヶ月後には繋がらなく予定。
どこかに過去ログを残しておこうかな。
で、2004年に書き込んでくれていた人のうちのyunnさんかな、などと思ってみたりしてますが、違っていたらごめん。
>O先生に太極拳入門し現在に至っており
うおぅ~、王せんせの生徒さんっすか。
うほほ、何やら知り合いみたいな気分ですね。(^^)
いつだったか、日曜日の太極拳教室の後、生徒さん共々昼食を一緒にしたことがありましたよ。
またそんな事があるやも知れず。
お会いする日を楽しみしてます。(^^)
>無資格者問題については、もっと包括的に話が進み、法律も変わっていけばいいなと思っています。
どうなんでしょうね。
個人的にこの件に関しては、法運用は現状どうなっているのか、が主な興味の焦点だったので、どのようなあり方が理想なのかはあまり考えていない節があります。
個人的治療観自体に「変える」という発想がなく、その個人がどのように生きたいのかを、ホントのところを出来る限りの範囲で知りたい、それを実感的に知ることで滞りは自然に流れ出す、みたいな考え方をしてるので、法運用に関しても同様なのかも知れないです。
>代替医療の法律とかそーいうのができた方が、代替医療者または法定外医業
>類似行為者だけでなく、世間の人にも幸せと思います。
うん。
法律が出来た方が良いのかどうかは分かりませんが、現状の中でどのようにみんなが素敵に動けるのか、には興味あるかもです。
さらら
こんにちは。最近の「無資格マッサージ問題まとめ」など、とてもわかりやすくてすごいです。私は2004年にこの件に関して多少カキコしたもんです。だけど、そのときのハンドルネームが上記かどーか、もうわからなくなっております悪しからず。2004年には、こちらのサイトのご紹介からで、O先生に太極拳入門し現在に至っており、puruさんは知らないけど知ってる方みたいな気がしております。いつか高円寺ででもお会いしましょう(笑)
無資格者問題については、もっと包括的に話が進み、法律も変わっていけばいいなと思っています。昭和35年の判例は、法定外医業類似行為者にとってよかったのかどーなのかと思っています。それで生殺しみたいな状況が45年も続いているのですから。代替医療の法律とかそーいうのができた方が、代替医療者または法定外医業類似行為者だけでなく、世間の人にも幸せと思います。
puru
こんにちは、サワさん。
>最後になってその限定はズルイですよ…。(^^;)
ズルイと言われても。(^^;
ただ、語りたい内容を明確にする為に、対象を絞っただけなんです。
無資格問題は、その対象を絞らずに一括りで語るとワケワカメになりやすいので。
>「治療」を前面に謳っている原初的慰安的とは言い難い手技の法定外民間療
>法(○○カイロ、○○療法等)も多数存在する事はご存知でしょうに。
>
>まあ私は、その限定内であってもやはり基礎医学的知識が必要と考えますが、
>もう止めておきますね。
うはは。
ぼくも、あはき柔や民間療法を含めて基礎医学的知識は必ずしも必要ではないと思います。
と、対象を広げて書いておきますね。
基礎医学的知識以前に大切なことは。
あはき柔師は医行為を行う医師ではないという自覚を持つこと。
治療という言葉を使える資格ではあるけれど、その治療はあくまで「医業類似行為」という、医行為には及ばない類似の行為でしかないという自覚。
また、診断権を持たないのだという自覚も必要です。
たとえ基礎医学を学んだとはいえ、医師としての訓練を受けた訳でもなく、他者の体の診断は出来ないのだという自覚。
>私が考える施術者にとって最も大切な医学知識(一般常識?)とは
>「肩こり・腰痛などの裏にも重篤疾患が潜んでいる場合がある」ということです。
うん。
これ、一般常識。
あはき柔師であれ民間療法業者であれ、医師ではない医業類似行為者に一番必要なのは、自分たちには診断出来ないのだという自覚です。
不明な点があれば、しかるべき医療機関の受診を勧めるというのも常識でしょう。
このような常識的謙虚さを持ちながら誠実に業務を行っていれば、基礎医学的知識なく医業類似行為を行っても何ら問題はないと思うのです。