タイトル:富士川游著「日本医学史」を読む・テキスト化1:第一章「太古の醫學」有史以前の醫學:醫學上の神祇時代・醫人の鼻祖・神祇時代の醫學:町の按摩さん.com

富士川游著「日本医学史」を読む1

柔道整復の歴史を調べていたら、「杜正勝:医学史から見た日本古代文化に対する道家の影響」という中国語論文を見つけました。

・杜正:从医史看道家日本古代文化的影_天涯博客_有的人都在此_天涯社区
http://blog.tianya.cn/blogger/post_read.aspBlogID=439267&PostID=17437700

これをなんとか解読して読んでいるうちに、論文中に多数引用されている日本における医学史の大先達、富士川游著「日本医学史」 が読みたくなり、探してみたら国会図書館の近代デジタルアーカイブで発見。
ものすごく充実した内容なので、まずはこのデジタル画像「日本医学史」をテキスト化することにしました。

・国会図書館:近代デジタルアーカイブ:日本医学史
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/833360/1

テキスト化原文は国立国会図書館近代デジタルアーカイブのデジタルデータを利用しましたが、一元流鍼灸術「知一庵」にも同書のデジタルデータがアップされているので、そちらも参考に。

・日本医学史:富士川游(一元流鍼灸術:知一庵)
http://1gen.jp/kosyo/054/mokuji.htm


「日本医学史」 第一章「太古の醫學」1

有史以前の醫學

醫學の歴史は人類の原始史と、その紀元を同ふするを以て、歴史的醫學は、有史以前の時代に遡りて之を攻究せざるべからず。
蓋し我等の祖先が動物の状態を離れて、始めて自己の精神的能力を自覺せしより、今日に至るまでは、年代左ほど悠久ならず。
有史以前、原始の人類が、其生活の状態、野獣と些も異なることなく、居處を定めず、社會を成さず、食物を求めんがために東西に奔走せし時代は、其間幾千年といふことを知らず。
此時に方りて、身體を勞働すること其度に過ぎ、又は野獣若くは他の仇敵と戰ふがために、身體を傷害せること稀ならざるべく、又食物の缺乏及び粗悪と天候の感作とのために身體の違和を醸せしことも定めて多かるべし。
左れば人類が自然界に接觸して當然、第一に招くべき外科的損傷に併せて、加答兒、炎症、及び僂麻質斯(リュウマチス)等諸病の既に當時に存せしことは、いまより之を推知するに難からず。

我日本國の有史以前の時代に關しては、近時殊に人類學者の研究によりて知り得たる處少なからず、當時の住民は、或は「コロポツクル」と稱する人種なりとし、或は「アイノ」人種なりとし、議論未だ歸着せずと雖も、該住民の遺跡遺物等に關する研究は稍々精微の域に達し@A、貝塚人種に齲齒(ウシ、クシ:虫歯)の存しせることを發見し、其下腿骨に梅毒性變化の存在せることを認めたりとの報告ありBC。
其の果して梅毒なるや否やは遽かに之を斷定すべからずと雖も、而も骨質の病理的變化たることは之を確認すべし。
西洋諸家の諸説に依るに、有史以前の時代の人の骨につきて、同しく、骨折、關節炎、及び骨質の病理的變化等を認め得たりと云ふD。
爾他の病症につきては固より形跡の徴すべきもの無しと雖も、人類が外圍の自然界に接觸するによりて當然招致すべき外科的損傷を以て第一の疾患とし、次ぐに娩産の障壁を以てし、又嗣ぐぐに身體内臓の加答兒、炎症等を以てせることは、疑を容るべからざるなり。
而して當時の人類が有せる所の治療的本能は、例之熱あれば冷水に浸し、皮膚の創傷は唾にて嘗め、僂麻質斯性の苦痛あるときは其體を日光に暴露し、胃不和あれば草をみて嘔吐を起す等、これを動物の治療的本能に比して一歩も優さる所なかりしならん。
此時に方りて、醫士はすはち同時に藥品にして、病者自己は實に醫士と藥品とを兼ねたるなり。

醫學上の神祇時代

我日本國の歴史は天之御中主神より草葺不合尊(うかやふきあはせずのみこと)に至るまで數世の間は神と人と別あることなし、歴史家之を神代稱す。
其年代は今より之を詳にすることを得ず。
降りて人皇の代に至りても、神武天皇より九世九代を經て開化天皇に至るまで、大凡四五百年の間は、尚ほ神人無別の世なり。
乃ち國初より此期に至るまでを醫學上の神祇時代とす。
國史に、當時の事情を記載する所を案ずるに、神話と歴史と混淆錯雑として、事實の眞相を窺ふに苦しむ所ありと雖も、而かも其の大要を見るに足るものありEF。
天池初發の時、高天原に神あり、天之御中主といふ、次に高皇産靈神、次に神皇産靈神あり、この三神は造化の主神なり。
天地の中に神あり、天之常立神といふ、次に國之常立神あり、以下伊邪那岐、伊邪那美の兩神に至るまで數神あり、之を神世七世と名づく。
伊邪那岐、伊邪那美の兩神は相携へて馭慮嶋(おのころしま)に下り、大八洲國を生成せりと傳ふ。
蓋し此等の諸神は海外より斯土に來たれるものにして、高天原とは其本土のことを指せるものならん。
此時に方りて、斯土には巳に久しく土人の住居せるものあり、新に外邦より来れる人民も處々に住居して、各々其地を耕し、既に稻穀種ふることを知れり。
伊邪那岐、伊邪那美兩神の子、天照太神の治世の頃に至りては、既に木造の宮殿あり、布帛又は絹の衣服あり、銅鐡若くは石屬を用ひて造れる刀劍あり、弓矢あり、紡織の技あり、漁獲の法も行はれ、舟車の具も略ほ(ほぼ)備はり、飮食の具あり、烹炙の法あり、食糧として鳥獸魚介の肉より穀菜に至るまでを用い、國民は既に生活の道を圖(はか)り、歌謳ありて後世文藝の始をなせり。
すなはち其文化の程度は所謂石時代を過ぎて既に金属時代に入り、而して其黄銅時代を越て鐵時代に移りし後にして、人類の原始を距(へだて)ること既に甚だ遠し。
蓋し原始の人類にありては創傷及び疾病あるも、之を治療するは一にその本能に依り、叡智に基つきて之を工夫することを知らず、人智更に進みて、事物を觀察し、其原因を尋究するに至りては、疾病の發生にも一定の因由を附し、これを治療するにも方則を設くるを見る。
これ原始醫學の歴史上、各國その轍同しくする所なり。
我が神世七代の頃は、文化の程度、已にこの期に達せることは上にも云へるが如くにして、其治病の術が動物的治療本能以上に進み居りしことは之を推想する事を得べし。
伊邪那岐神、火神軻遇突智(ひのかみかぐつち)を生まんとする時に『悶熱懊惱、因りて吐を爲し、遂に焦かれて死す』と云ふF、これ實に疾病の史籍に見えたる始なり。
而して大穴牟遅神の火傷せしとき、神皇産靈神これに治療を施し(後に出つ)、伊邪那岐神が桃に詔して『葦原中國のあらゆる顯見青草(うつしきあおひとくさ)の苦Pにおちて苦しむとき助けてよ』と云ひしと傳ふるが如き(後に出つ)、雫碎瑣談と雖も、亦以て神世七代の頃に已に一定の醫方あり、藥品あり、また醫士ありて治病を司とりしことを證するに足るべし。
然れとも國史上に其事績の明記せられたるは稍々、後の代にありて大穴牟遅神、少名毘古那神の二柱の神に始まる。

醫人の鼻祖

天照太神の弟に素戔嗚尊あり。
素戔嗚尊六世の孫を大穴牟遅神といふ、最も武略あり、高皇産靈神の子、少名毘古那神と力を戮せて天下を經営し、また蒼生(ひとあおくさ)のために病を療するの方を定め、鳥獸昆蟲の災異を攘(はら)はんが爲に禁厭の法を定めたりと云うFG。
故に歴史家或はこの兩神を以て我邦醫藥の鼻祖なりとせり。

  • 大穴牟遅神、一名を大國主神、大國魂神、大物主神といふ、天下を伏せて多く?土を拓くの義なり、また顯國玉神、國作大神と云ふは其國土を經営せし功績を稱するなり一に葦原色計男神(あしはらのしこをのかみ)といふは其勇猛を歎美し、八千矛神といふは其武威を稱揚するなり。
    大穴牟遅は一に大巳貴(日本書紀.古語拾遺)大汝(万葉集)大穴道(万葉集)於保奈牟知(万葉集)大奈牟智神(姓氏録)大名持(三代實録.延喜式)と書す「オホムナチ」と讀むべしH。
    一説に云ふ、素戔嗚尊、櫛名田比賈に婚して大穴牟遅命を生むと。
    本居宣長曰く『書記本書に須佐之男命、櫛名田比賣に御合(みあひ)座て生兒大己貴命とあり、此は凡て上代には遠祖までをかけて、みな意(?)夜と云ひ、子孫末々までをかけてみな古と云へれば、此も須佐之男の御子孫と云ふ意にて御子と申傳へつるより混(まぎれ)し傳なるべし』と日本書紀にも一書には『嶋篠五世孫、即大國主神』『素戔嗚尊所生兒之六世孫、是曰大己貴命』とあり、左れば大穴牟遅神を以て素戔嗚尊六世の孫とすを正しとすべし。

    大穴牟遅神を平げて出雲國御大之御前に居たり且飮食せんとす、この時海上忽ち人の聲あり、乃ち重て之を求むるに見ゆる所なし、頃刻にして一箇の小男あり、白藪(かがみ)の皮を以て舟を作り鷦鷯羽(ささぎのは)を以て衣となし、湖水に随ひて浮び到る、大穴牟遅神即ち取て掌中に置て之を翫(もてあそ)ひしに、則ち跳りてその頬を齧む、乃ち其物色を怪しみ之れを天神に白ふす、高皇産霊神(一説に神皇産霊神)之を聞て曰く、『吾が産める兒すべて一千五百座あり、其中に一兒最悪にして教養に従はず、指間より漏れ落ちたり、必ず彼ならん、宜しく愛養すべし』とこれ即ち少名毘古那神なり、これより大穴牟遅神、少名毘古那神と相併(なら)びて國土を經営せしが、後に至りて少名毘古那神は常世國に渡れりと云ふ、常夜とは海外僚遠の義なり、少名毘古那神、一に少彦名と書す、形體の短小なるを指せる稱呼なり、毘の字濁音なり、「スクナビコナ」と讀むべしI。

    平田篤胤の説Nに依れは、世に大黒、恵比須の像とい云ふものありて戸々に祭れるを見る、この二柱の神は大穴牟遅、少名毘古那神に外ならざるべし、大穴牟遅の一名を大國主神と云ふにより、大國主の大國を字音にて「ダイコク」と讀みしものか、これを大黒と書くは佛書に摩訶伽羅と云へる語を翻訳したるにて、摩訶伽羅天神は勇烈なる軍神なりと云ふによりて之を大穴牟遅神に附會せるならん、恵比須と云ふは蛭子神、事代主神なりとの説あれども、この内には少名毘古那神をも混せるならん、「エビス」と云ふは何に依らず事物の常に違えることを指すものにて、少名毘古那神が身体の殊に矮小なりしにより、之を恵比須と唱えしものか。

然れとも大穴牟遅神、少名毘古那神の醫方に關しての事績は日本書紀に『夫大巳貴命譽少彦名命戮力一心、經營天下、復爲顯見蒼生及畜産、則定其療病方、又為攘鳥獸昆蟲之異、則定其禁厭之法、是以百姓至今咸蒙恩頼』とあるの他、古事記に大穴牟遅神が稻羽の白兎の負傷せるを療治せること(後に出つ)を傳ふるのみ。
故に大穴牟遅、少名毘古那の兩神が定めたる醫方の如何なるやは固より之を詳にするに由なし、思ふにこの兩神は當時已に久しく世に行はれたる療病の方を集めて以て醫方の則を立てたるものならん、之を希臘(ギリシャ)の醫術の神たるアスクレピオス(Asklepios)に比すべし。
アスクレピオスの事跡は實に神話と歴史との教会に位すれとも、これ紀元前十三世紀に世にありたる歴史上の人にして神にあらず、其醫方に精しきの故を以て死後に及びて神として祭られたるものなり。
我大穴牟遅神、少名毘古那神も同しく歴史上の人にして、少名毘古那神は外國より來りし人、大穴牟遅神は外國より來れる素戔嗚尊と斯邦土人との間に生まれたる種族のものにして、共に當時の名醫なりしならん、祖先の功徳を崇拝して神として神として之を祭つることは我邦太古よりの習俗なれは、この兩神も後に至りて神として崇められ、又醫方の鼻祖と仰がれたるなり、而かも眞に醫方の鼻祖にはあらず、國史に明記せる所に據りて之を我邦第一の醫人とすべきのみ。

神祇時代の醫學

今日吾人が醫學と名づくるものは上古及び中古の時代に用ひられたる同一の文字とは其意義を異にし、輓近の醫學は人類の成立、構造、化學、動作、及び其の動物界に於ける地位等につきて精査研究し、又進みて疾病の本態、原因、伴に其の轉節を討求し、其の極あらゆる介補品を用ひて之を治療する所の方則を立つる所の學科なり。
されば假に醫學を以て、これを1個の家屋に比すれば、治療法は其の屋蓋に匹當するものにして、治療を講するには病理を究めさるべからず、病理を究むるには先ず解剖學及び生理學の知識を要すること固より論を俟たず。
然れども医学の歴史は、全然反對顯象を吾人に示し、今日吾人が医学の終節なりとする所の治療法は却て卒先して我が医学の發端をなしたり。
蓋し人類文化の歴史を案ずるに、あらゆる學問は其の初より知識を渇望して人の之を興せしものにあらず、全く自然の必需に應して始めて其の基本を作りしものにして、有史以前の時代にして人の未だ疾病の何物たるやを知らず、又藥物の何れに存するやを曉(さと)らざるの前に方りても、已に早く病苦を輕快すべき焦眉の要求あり、医学の發端たる治療法はこの自然の要求に應して起れるなり。
我神祇時代にありては、人智已に進みて、其の治療法は既に動物的治療本能の範圍を脱し、已に醫方あり、醫志士ありしこと前段に述べたる如くなれば、たとひ原始的の治療法と雖も、尚ほ且つ疾病の知識を要し、依りて病理學の萌芽はここに顯はれたり。
解剖學及び生理學につきては、僅に身體の外形に一定の名目を附し、靈魂ありて肉体を支配することを信せるに過きず。
實に大部は治療法にて、これに病理學の初歩を加へ、、更に解剖學及び生理學の萌芽を交へたるもの、これ我が神祇時代に於ける醫學の全體なり。

 

ページ最上部へ矢印:富士川游著「日本医学史」を読む・テキスト化1:第一章「太古の醫學」有史以前の醫學:醫學上の神祇時代・醫人の鼻祖・神祇時代の醫學:町の按摩さん.com:町の按摩さん.com