武術書に見る「病を去ること」(2)その秘訣:Awakening the Body ~ 目覚める身体 目覚める感覚:治療・感覚・意識・その他:町の按摩さん.com

Awakening the Body ~治療・感覚・意識・その他~2

  1. 武術書に見る「病を去ること」(1)こだわりと四季の移ろい
  2. 武術書に見る「病を去ること」(2)その秘訣
  3. 武術書に見る「病を去ること」(3)感覚を内側から感じると病は去る
  4. 治療:人生の転機と体を覆う澱み
  5. 治療:歓びの可能性を開く症状
  6. 「寝ぬ夜の夢」を読む1
  7. 「寝ぬ夜の夢」を読む2
  8. 「寝ぬ夜の夢」を読む3

 

 



武術書に見る「病を去ること」(2)その秘訣

病「兵法家伝書」本文

「兵法家伝書」柳生但馬守宗矩 寛永九年(1632)より

(本文)

後重には、一向に病を去らんと思ふ心の無きが、病を去るなり。
去らんと思うが病気なり。
病気に任せて、病気の内に交わりて居るが病気が去つたるなり。
病気を去らんと思ふは、病の去らずして心にある故なり。
しからば、一円病気が去らずしてする程の事、思ふ程の事が着して、する事に勝利あるべからず。
如何んか心得可きぞや。

答へて曰く。
初重後重と二つたてたるはこの用なり。
初重の心持ちを修行して、修行積みぬれば、着を去らんと思はずして、ひとり着が離るるなり。
病気というは着なり。
仏法に深く着を嫌ふなり。
着を離れたる僧は、俗塵に交じりても染まず、何事をなすとも自由にして、留どまる所が無ひ者なり。
諸道の達者、その技々の上に付きて着が離れずば、名人といはるまじきなり。
磨かざる珠は塵ほこりがつくなり。
磨きぬきたる玉は、泥中に入りても汚れぬなり。
修行をもって心の玉を磨きて、汚れに染まぬやうにして、病に任せて、心を捨て切つて行き度き様にやるべきなり。

(現代文)

後の段階では、病を去ろうと思う心が一切無いことが病を去る秘訣となる。
去ろうという思いが病気なのだ。
病気に任せ切り、病気の内に溶け込むことが病気を去るということになる。
病気を去ろうと思うのは、いまだに病が心から去ってはいないからだ。
そこで、一向に病気が去らないままする事は、思いが心に留どまったままなので、事を達成出来るはずもない。
どのように心得るべきだろうか。

答えはこうだ。
第一段階、後の段階と、二つに分けたのはこのような理由だ。
第一段階の心持ちを修行し、修行を積んでいけば、心の留どまりを去ろうと思わなくても、ひとりでに留どまりから離れるようになる。
病気というのは心の留どまりだ。
仏法では執着を深く嫌う。
執着を離れた僧は、俗塵に交じっても染まらず、どんな事をしても自由に在り、留どまることが無い者だ。
諸道の達人で、その技の上に心が留どまって離れないならば、とても名人とはいえない。
磨かれていない玉には、塵やほこりが付く。
磨き抜いた玉は、泥の中に入れても汚れはしない。
修行によって心の玉を磨き、汚れに染まぬようにし、病に任せ切り、心を解き放って自由に生きるべきだ。

病 「願立剣術物語」

 「願立剣術物語」服部孫四郎(江戸時代初期に活躍した松林左馬助無雲に術理を記したものと思われる)
NHK人間講座テキスト『「古の武術」に学ぶ』甲野善紀 2003.10 より

(本文)

我総体の病筋骨の滞り曲節をけづり立ち、幾度も病をおびき出し、心の偏り怒りを砕き思う処を絶やし、ただ何ともなく無病の本の身となる也。
他人の病をよく知り、泥む処恐る処を我が身の如くあらわし、師其病を改める事。
師も本此の病を愁い我にある所をもって人を直し申す儀。
(現代文)

我が身総体の病である筋骨の滞りをすべての関節より削り落とし、深く隠れている病をも幾度もおびき出し、無意識の裡にある心の偏りや怒りを明らかにし、滞った思いの根源を絶やし、特別なことは何もない無病で無垢な本来の身となること。
他人の病をよく知り、澱む所や恐れる心を我が身のように明らかにし、師はその病を改める。
師もまた元はこの病を愁い、我が身にある病の経験により他人の病を直すのだ。

病から去る方法


最初に引用した「兵法家伝書」。
病気に任せて、病気の内に交わりて居るが病気が去つたるなり。
これが病から去る具体的方法論です。

そして、この病を去るコツを理解し、実践的に深める道。
修行をもって心の玉を磨きて、汚れに染まぬやうにして、病に任せて、心を捨て切つて行き度き様にやるべきなり。
と「兵法家伝書」は語ります。


次ぎに引用した「願立剣術物語」では、病を去るプロセスが述べられています。
筋骨の滞り曲節をけづり立ち
まず肉体的な滞り、緊張を解放し。

幾度も病をおびき出し
これは、おびき出すべき隠れている深層筋の滞りや緊張に加え、心の滞りや病をも指しているかも知れません。

心の偏り怒りを砕き思う処を絶やし
ここで当然のように心や感情の滞りに言及していますが、解説するまでもなく我々日本人にとっては身体の滞りと心の滞りは同義です。
身体の滞りを解消するということは、同時に心の滞りも解消するということになります。
「心の偏り怒りを砕く」為には「兵法家伝書」でいう「病気の内に交わりて居る」必要があります。
つまり「心の偏りの内に交じりて居る」「怒りの内に交じりて居る」ことが求められる訳です。


秋猴の身「五輪書」


宮本武蔵「五輪書」正保2年(1645)より
(本文)

秋猴の身とは、手を出さぬ心なり。
敵へ入る身に、少しも手を出す心なく、敵打つ前、身をはやく入る心なり。
手を出さんと思へば、必ず身の遠のくものなるによつて、惣身をはやくうつり入る心なり。
手にてうけ合いするほどの間には、身も入れやすきものなり。
能く能く吟味すべし。
(現代文)

「秋猴の身(秋猴:手の短い猿)」とは、手を出さないという意味だ。
敵に我が身を寄せていく時に、少しも手を出す心はなく、敵が打ち掛かる前に我が身を素早く寄せていくこと。
手を出そうと思えば、必ず胴体は遠のくことになるので、総身をもって素早く敵の裡に移り入ることだ。
手で受け合いをする間合いであれば、身を入れるのも容易だ。
よく研究するように。

病を去る秘訣・手先ではなく体で入っていく

敵や対象を操作、除去、コントロールしようとする時、我が身を安全圏に置きつつ手先で扱おうとするのは、剣術に限らず多くの場面でみられるものです。
按摩や操体法でも、不慣れな人や下手な人は手先だけで相手に触れてしまいます。
按摩をする時は、実際に触れているのは母指だけであっても、触れている実質はお腹や胸、総身で触れていきます。
また、操体法で相手の動きに軽く抵抗を与えつつ付いていく時は、手で触れつつも相手の動きを丹田や総身で受けています。

手先だけで相手に入っていく時、実感を伴わない頭や考えだけで入っていこうとします。
総身で相手に入っていく時、実感そのもので入っていきます。
例えば、手先だけで按摩をしている人の動きや姿勢を見ると、胴体は相手の体から離れたまま手先と頭だけが相手の体に向かいます。
実感を伴わない考え、思考、頭=手先、ともいえます。

上で、病を去ることのコツは「病気の内に交わりて居る」ことである引用を示しました。
この去る対象である病、滞りに対面する際も、この「五輪書」の「秋猴の身」の秘訣が参考になります。
手先や頭、考えだけで「病気の内に交わりて居」ようとするのではなく、この総身により実感をもって「病気の内に交わりて居る」こと。
それがもっとも重要になります。