- 武術書に見る「病を去ること」(1)こだわりと四季の移ろい
- 武術書に見る「病を去ること」(2)その秘訣
- 武術書に見る「病を去ること」(3)感覚を内側から感じると病は去る
- 治療:人生の転機と体を覆う澱み
- 治療:歓びの可能性を開く症状
- 「寝ぬ夜の夢」を読む1
- 「寝ぬ夜の夢」を読む2
- 「寝ぬ夜の夢」を読む3
治療:歓びの可能性を開く症状
お馴染みの患者さん、今回は1ヶ月ほどぶりに来室。
数ヶ月前からの坐骨神経痛が相変わらず続いているといいます。
寝ていても、痛みで目が覚めてしまうくらいの鈍痛様の痛み。
いつもであれば、たいてい一度の治療で良くなる不具合が治らないので、腑に落ちないという様子。
難しいですね、体には体の都合があって、人の思惑を越えていたりしますから。
これまでの治療の時にも、「何故治らないのかまったくわからない」といった表情が続いていました。
時々小さな「あっ、そうか」という腑に落ちるポイントは何度かあって、一時的に症状が軽減するということはあったのですが。
ぼくから見た、今のその人の大きなテーマは、「楽しく、しあわせに生きている?」ということ。
まあ、それは、ほとんどすべての人に当てはまることだったりしますが・・・。
体のその内側からは、いつでも興味や好奇心が浮上し、湧き出しています。
そして、その興味や好奇心を暖め、それを携えて生きていると、それだけで活き活きとします。
目を輝かせている幼子のような感じ。
体や心の内側から湧き出す興味や好奇心は、純粋で無垢なエネルギー。
逆に、頭で決めたり判断した「正しいこと」「~すべき」「普通はこうする」に沿って生きていると、体は歓びを失い硬直していきます。
果ては、内側から湧き出す興味や好奇心を認識する回路自体が錆び付き。
「私のやりたいこと、楽しいこと」がわからなくなったりもします。
座骨神経痛の患者さんですが、もともとが気持ちよいくらい好き嫌いのハッキリとした人。
ですから、まさか自分自身が楽しくしあわせに生きていないとは到底思えません。
ぼくから見ても、とても無理をして頑張っているようには見えず。
とはいえ、自分で作った限界、固定観念の枠に閉じこもっているようには見えるのです。
内側からの興味や好奇心、楽しみたいというエネルギーの表面に触れたり、離れたりしていたこれまでの治療。
今回はこれまで以上に体は頑なになっていました。
肩から首はガチガチ。
そして、背中を按摩、胸郭の後ろ上部を揉んでいると。
前側、胸の上の方が硬直していて、背骨に動きがなくなっています。
背中~腰の按摩を終えて、お腹と背中を伸ばすようにしてから再度背中を触れると。
背骨と胸が緩んでいて、胸郭自体の動きも柔らかくなっており。
患者さんの胸の中から「もう、すぐに歓びがわかるよ」という声が聞こえたように感じました。
確かな手応え。
たぶん、これで大丈夫。
按摩後、これまでも按摩は気持ちよいと思っていたけれど、今回はひと揉みひと揉みで体全体が気持ちよく、「こんな気持ちよさがあったのね」としみじみ言います。
そして、その気持ちよさと、楽しさや歓びは似ているのだと、ひとつ腑に落ちたとのこと。
それを言っている患者さんの顔は、子どものような無邪気さを取り戻していました。
そういえばその後、坐骨神経痛がどうなったのか聞いていません。
もしまだ痛みがあったとしたら、まだまだ歓びの可能性を開くキッカケが眠っているということなんですよね。
(ちなみに、痛みのひどい患者さんには、必ず西洋医学的医療を受診するよう勧めています。
その上での按摩であり、ぼくは按摩を治療だとは思っていないのです。
按摩は慰安です。)
3ヶ月後
というわけで、前回の患者さん。
3ヶ月ぶりの来室なのでした。
>患者さんの胸の中から「もう、すぐに歓びがわかるよ」という声が聞こえたように感じました。
>
>確かな手応え。
>たぶん、これで大丈夫。
>そういえばその後、坐骨神経痛がどうなったのか聞いていません。
>もしまだ痛みがあったとしたら、まだまだ歓びの可能性を開くキッカケが眠っているということなんですよね。
前回の治療の数日後、とあるキッカケで。
「そう、それ! 私が望んでいたのは!」という出来事があり。
その後、ウソのように坐骨神経痛が消えたそうです。
歓びがマインドと体に浸透するまでは、まだ時間が掛かりそうですが。
一歩前進。^^
その一年後
最初の記事からほぼ一年後。
前から「こういうことがしたい」と思っていた事を考えはじめていた頃、それを具体化できる出来事が舞い込み。
それはその人にとって
「生き甲斐」とも言えることで。
それが実現しつつあるとのこと。
それが実現しある程度形になれば、それはその人のライフワークになりそうです。(^^)
|